終焉に近づいたハンセン病療養所
< あおばの会(東日本退所者の会)会員
NPO法人IDEAジャパン理事長 森元 美代治 >

 全国13の国立ハンセン病療養所の入所者は現在1979名で、その平均年齢は82.6歳を超え、超高齢者集団となった。そして厚生労働省の将来予測によれば七年後2020年には全国で僅か600名に激減し、加速的に各療養所が終焉に向かっている。医療機関として、あるいは福祉施設として最終着地点およびその存続をどこに求めるかは、ハンセン病療養所の喫緊の最重要課題といえる。入所者減に伴う職員数の削減は顕著で、どの療養所も医師不足は極めて深刻である。看護・介護力も低下し、重複障害に悩む高齢者の日常生活はたる状況にある。
 最近、療養所でよく耳にすることばは、「私は最後の一人ではなく、最後の50人になりたくない」ということだ。ますます厳しくなるばかりの環境では将来に希望はなく、長生きしたくないというのが本音のようである。
 昨年11月に国会のお膝元である永田町で全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)主催による総決起集会が行われたが、90歳を超えた人たちがハンストも辞さない決意を述べられ、その実力行使も一触即発の状況にある。国の誤った終生隔離政策によって人生被害をこうむった療養者にこのような老後の生活を強いる国の対応は絶対に看過できない。ハンセン病国賠訴訟で敗訴した国は、判決に従って法的責任を果たすべきである。
 2008年に「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律(ハンセン病問題基本法)」が制定され、各療養所の地域性や特異性を活かして、地域社会に開かれた療養所に改革変身することが可能となった。そのために沖縄愛楽園や奄美和光園などのいくつかの療養所では保険診療による入院制度が導入され、邑久光明園は瀬戸内市の特別養護老人ホームとして来年4月に指定される予定であり、また多磨全生園と菊池恵楓園には保育園が設置されるなど、一部の療養所では一定の前進は見られた。しかし、多くの療養所は医療機関としての将来構想の具体的な動きはまったく見られないといってよい。
 本年10月に東京で「第九回ハンセン病問題全国交流集会」が開催される。その全国交流集会の根底に流れるテーマは「真宗同朋会運動とハンセン病問題」であり、タイムリミットが迫っているハンセン病療養所の将来構想問題を積極的に取り込んで、全療協と協働体制で行動を起こしてほしい。どの療養所の自治会も高齢化がすすみ、その活動状況も等しく縮小気味で、外部の支援者の新しい情報やアイデア等を待っているのが現状である。ちなみにこの全国交流集会に第1回から8回まで皆勤参加しているのは唯一わが夫婦だけであると思う。その都度新しい出会いを得て、多くを学び、みなさんに励まされ、新しい命を得られることにいつも感謝している。
 

当事者の記憶を受け取り、次世代へ手渡すために
─「ハンセン病問題全国交流集会」東京集会へむけて

< 「第九回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会」東京集会準備委員会委員
埼玉大学非常勤講師 黒坂 愛衣 >

 10月16日~17日に東京で開催される「第9回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会」。2日目は多磨全生園でのフィールドワーク、当事者のお話を聞く企画などを準備中だ。2日目のテーマは、熟議を経て「耳をすます そして語り継ぐ」に決まった。この言葉に、わたしが準備委員会委員の一人として込めた思いをみなさまにお伝えしたい。
 数年前、わたしがまだ20代のころ。全生園で暮らすあるおばあさんの部屋を初めて訪問し、お手製のキムチと庭で育てたというサンチュのサラダをご馳走になった。彼女は在日韓国人で、本格的な美味しさだった! 感嘆してモリモリ食べるわたしに、彼女はこちらがびっくりするほど喜んでくれた。その尋常でない喜びには、単純に来客をもてなすのが嬉しいという以上のなにかがあった。「手作りのもの、一緒のものを食べてくれるのは、ほんとうに嬉しい。「患者は汚い」と嫌われてきたから」。客人と食卓をともにするという、わたしにとって日常にあたりまえにあることが、ハンセン病療養所では長い間決してあたりまえではなかった。そのことが入所者の心に与えた刻印の大きさを思い知らされた場面だった。その後もお部屋を訪ね、過酷な人生の歩みをうかがった。いつも温かく迎えてくれた彼女が、ふと「いまさら人権だなんて遅すぎる……」と漏らしたのを、わたしは忘れることができない。
 この日本社会で、ハンセン病に罹った人々の身になにが起きたのか。「排除」「隔離」が人間のうえになされるとはどういうことなのか。そこを生き抜いた人々の生の尊さと豊かさ……。当事者と出会い、その体験の語りから学ぶべきものは多い。しかし現在、ハンセン病療養所は高齢化と死亡による減少が著しく、平均年齢は82歳超、入所者総数は2000人を切った。当事者から学ぶのに残された時間は少ない。加えて、一般社会の〈忘却〉の波も押し寄せる。大学生たちに「2001年の「らい予防法」違憲国賠訴訟、覚えてる?」と尋ねると、「ぜんぜん記憶にない」という返事が返ってくる。
 わたしたち一人ひとりが、当事者の体験の記憶を受け取り、次世代へ伝える担い手になろう。東京集会ではそのための学びの場を用意している。あなたの参加をお待ちしています。

 

《ことば》
髙橋さん、ありがとう、ありがとう

< 三条教区 髙橋深恵 >

 柴田良平さんに初めてお会いしたのは、10年前に行われた公開講演会でのことだった。帰りのタクシーに乗る間際、柴田さんは私の手をしっかりと握り、「髙橋さん、ありがとう、ありがとう」と言って、別れを告げた。それから1年後、別の集会で再び、柴田さんにお会いすることになったが、その時も私の手をしっかりと握りしめられ、再会を喜んでくださった。
 私が直接、柴田さんにお会いしたのは、その2度だけではあるが、あの時の手の感触は今でも鮮明に残っている。
 若い頃は、ハンセン病による手足の痺れがあるのにもかかわらず、過酷な労働を強いられ、また国賠訴訟の際には拳をにぎり、果敢に国と戦ってこられた柴田さん。今、思うと、私の手を握ってくれた柴田さんの手から感じられた力強さと熱は、歩んでこられた歴史であったのかもしれない。あの手の感触は、一生忘れることはないだろう。

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2013年8月号より