ハンセン病差別と死刑
< ルポライター・ハンセン病市民学会共同代表 鎌田 慧 >

  ああ……
  わずかな空地でいい
  腹の底から
  「馬鹿野郎」と
  大きな声が出せるところが欲しい
(「小さなのぞみ」)

 
 と書いたのは、死刑囚・藤本松夫さんである。「押し鮨のように」と彼が形容する独房に閉じ込められていて、「消えかけた命を今日もまた引きずってゆく」と書いている。その日々の繰り返しのなかで、無性に腹を立てていたのであろう。
 それはよくある死刑囚の諦観、断念などではない。抑えきれない憤りがこめられているのは、彼が無実の死刑囚だったからだ。
 
  叫びたし 寒満月の 割れるほど
 
 これは福岡事件の被告・西武雄さんの俳句だが、そこにもおなじような絶望感がこめられているのは、彼もまた冤罪死刑囚だったからだ。
 無実の罪で死刑にされるなど、考えられない恐怖だ。しかし、このふたりのほかにも、飯塚事件で処刑された久間三千年さんの例もある。ようやく再審請求がはじまっている。彼は足利事件の菅家利和さんとおなじように、事件当時の不正確なDNA鑑定によって、死刑を宣告され、執行された被害者である。
 人間が人間を裁くことの罪深さを、これらの冤罪死刑事件が明らかにしている。
 藤本松夫さんは、熊本県のハンセン病施設「菊池恵楓園」に入所させられていたので、この事件は「菊池事件」と呼ばれている。
 
 いまから62年も前の1951(昭和26)年8月のことである。 熊本県北部の交通不便な山村で、村役場に勤めていたAさん宅に、いきなりダイナマイトが投げつけられ、Aさん(当時49歳)とAさんの子ども(当時4歳)が負傷する、という事件が発生した。
 「藤本さんはハンセン病患者だ」と村役場の職員のAさんが県に報告した、そのことを藤本さんが恨んでいた、という警察官が作ったシナリオによって藤本さんは逮捕された。
 しかし、藤本さんは、ダイナマイトを持っていなかったし、そのあつかいかたも知らなかった。このころはまだ、ハンセン病は「業病」と言われ、伝染する恐ろしい病気だとして、強制隔離が政府の方針とされていた。
 だから、一家、一族が地域から嫌われるのがあたりまえだった。家族も地域で生きていくために、病気を隠すようになっていた。
 しかし、実際は、「プロミン」という特効薬がアメリカから輸入され、すでに治る病気になっていたのだ。
 政府は、1907(明治40)年に、「(らい)予防ニ関スル件」を制定して、絶対隔離政策をはじめていた。それは戦後になっても引き継がれ、戦前とおなじように、ハンセン病患者狩りとも言える、「無らい県運動」が行われていた。
 藤本さんが犠牲になったのは、この「無らい県運動」という絶滅作戦によってだった。地域ぐるみで、「らい患者」をあぶりだし、絶滅収容所へ送り出した。行政マンの成績競争でもあった。
 ハンセン病患者への恐怖と差別をつくりだしたのが、政府の政策だった、という意味では「無らい県運動」の罪は深い。わたしも、ハンセン病市民学会の運動によって、元ハンセン病の人たちにお会いすることができて、政府がどんなことをやったのかをはじめて知らされた。
 「患者」は封印列車に乗せられ、故郷や家屋から引き剥がされ、施設に収容された。
 そのあと、男性は断種、女性は堕胎を強制された。そのような人権侵害が平気でなされていた。
 わたしたちの無関心が、少数の人たちへの差別と圧政を許していた。それはとても恥ずかしいことだったのだ。
 菊池事件は、藤本さんがハンセン病患者だったからこそ、起きた事件だった。Aさん宅にダイナマイトを投げつけた疑いで逮捕された藤本さんは、菊池恵楓園内に設けられた「特別法廷」で裁かれ、懲役10年の判決が出された。
 これは日本国憲法76条2項「特別裁判所は、これを設置することができない」。第82条1項「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」に違反する行為である。
 ハンセン病施設は、憲法の埒外にあった。そこには憲法の光がとどいていなかった。
 その事実がハンセン病患者が、人間あつかいされていなかったことを、よく物語っている。
 収容所内収容所に収容されていた藤本さんは、二重の壁に閉じ込められた絶望から、脱獄を決意し、成功する。どこにかくまわれていたのか、人の情に厚い藤本さんは、それを語ることはなかった。ところが、脱走中に、ダイナマイト事件の被害者だったAさんが全身切り傷だらけの遺体で発見された。この事件の容疑者として、物置き小屋に隠れていた藤本さんが発見され、逃走した背後からピストルで射撃されて負傷、逮捕された。
 警官たちに追い詰められていたから、ピストルを使う必要はなかったのだが、警官たちは、ハンセン病患者を取り押さえるのを嫌がったのだ。
 この事件の裁判も、施設内の特別法廷で行われた。係官が証拠品を示すとき、菜箸でつまんでいた写真があるのは、ハンセン病の伝染力が強い、という差別感をあらわしている。伝染力は弱く、遺伝病ではなかったのだが、一度すり込まれた偏見は根強かった。
 1953(昭和28)年8月、特別法廷で、藤本さんに死刑の判決が出された。菊池恵楓園の自治会でも、無罪判決を求めて、裁判の支援をはじめた。が、高裁、最高裁でも死刑判決、それをくつがえすことができなかった。3度目の再審請求中の1962(昭和37)年9月14日、福岡刑務所に移送され、死刑を執行された。
 普通は再審請求中には、処刑しない。異例のことである。
 死刑執行のあと、救援運動の中心だった玉井乾介さんは、ひとり残された藤本さんの娘の将来を嘆いて、こう書いている。

 

 F君、父も母もいない貧農の娘の一生は大へんだろう。死刑囚の娘の一生はさらに大へんだろう。ハンセン氏病を父にもつ娘の一生はさらにさらに大へんだろう。君のひとり娘M子さんはこの重みを全部背負って社会に生きて行くだろう。F君。

 
 涙とともに書いた文章であろう。処刑の日から半世紀たったが、いままた、再審請求の運動がはじまっている。
 
(文責・解放運動推進本部)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2013年9月号より