私たちの歩み、そこには人がいる
─らい予防法廃止、謝罪声明から二十年─

<真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会 交流集会部会チーフ 中杉 隆法>
はじめに

 一九九六年、「らい予防法」が廃止され、「ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明」を出してから、来年で二十年を迎えます。私たちはこの二十年をどのように歩んできたのでしょうか。
 「謝罪声明」には、大谷派の罪について次のように表明しました。
 
  国家は法によって「患者」の「療養所」への強制収容を進めました。それとって、教団は「教え」と権威によって、隔離政策を支える社会意識を助長していきました。確かに、一部の善意のひとたちによっていわゆる「慰問布教」はなされてきましたが、それらの人たちの善意にもかかわらず、結果として、これらの布教のなかには、隔離を運命とあきらめさせ、園の内と外を目覚めさせないあやまりを犯したものがあったことも認めざるをえません。このような国家と教団の連動した関わりが、偏見に基づく排除の論理によって「病そのものとは別の、もう一つの苦しみ」をもたらしたのです。
 

これからどう生きていくのですか?

 私が初めてハンセン病療養所に足を運んだのが予防法廃止の翌年でした、その二年前に阪神淡路大震災が起こり、火災で自坊を焼失し、これから自分がどのように生きていくのか想像することも出来ずに、ただ漠然とその日その日を過ごしていました。
 そんな時、ハンセン病療養所の中にあるお寺で行われている交流会にたまたま誘われました。その時の私はハンセン病ということも、また隔離政策ということも何も知りませんでした。ただ、その日の交流会の後に、回復者の方々が後遺症などの治療のために入っておられる病棟を訪れた時に、ベッドの上から投げかけられた、ある回復者の方の視線が私には忘れられませんでした。
 「私はここでこのような現実を、隔離という現実を生きてきました。その現実を知ったあなたはこれからどう生きていくのですか」という問いかけを、その視線から確かに私は受け取ったのです。今もまだその問いかけに応えることはできていませんが、このことは間違いなく、それ以来療養所に足を運び続けることの根拠となるものでした。
 

第十回全国交流集会を山陽教区で開催

 それから十数年が経ち、来年四月には自教区である山陽教区において、「第十回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会」が開催されることとなりました。集会テーマは、「私たちの歩み、そこには人がいる─らい予防法廃止、謝罪声明から二十年─」というものです。
 これまで山陽教区においては、このハンセン病問題を教区の三つの重点課題(①阪神大震災を通し、いのちの学習の機会とする。②ハンセン病回復者との出会いを通し、共に人間回復の道を歩む。③広島被爆を機縁として非核非戦の道を歩む)の一つと位置づけ、長島愛生園、光明園(ともに岡山県瀬戸内市)の方々と交流を続けてきました。その交流というものの中身が、あらためてこの全国交流集会で問われてくるのだろうと思います。
 思えば、教区の交流会になかなか人が集まらず、時には内外からの批判も受け、何度も自己嫌悪に陥り、それでもまたひとつの言葉によって立ち上がり、右往左往しながらも、なんとかここまで続けてこられたのは、そこに人がいたからです。隔離によって人間の尊厳を奪われてきた人たち、そこから再び立ち上がろうとする人たち、隔離政策を推進した国を支えてきた人たち、人を隔離することによって自らの人間性を失ってきた人たち、そのことに気づき再び寄り添い生きようとする人たち、本当にいろんな人たちの姿がそこにありました。
 ハンセン病隔離政策というのは、そのひとりの人の存在を認めない、認めさせないという政策だろうと思います。だからこそ私たちは目の前のそのひとりの人と出会うこと、つながることで隔離ということを超えていかなければならないのでしょう。ひとりの人と出会うということは、その人が歩んでこられた道と出会うということだろうと思います。それは、その人の過去と未来が私の人生においても大切なこととして刻まれていくということです。
 

人生のたて糸となる関係

 その人の存在が自分の人生のたて糸となっていくような関係を生きることがきっとあるのでしょう。どんな織物でもたて糸がしっかりしていないと、一枚の布地にはならないのだそうです。私にとってはこのハンセン病問題というものとの出会い、そしてそのことによって出会えた人たちの存在が、私のこれまでの人生において、きっとたて糸になっているのだろうと思います。そのことはもちろん私だけではなく、これまでもたくさんの人たちがそのような関係を生きてこられたのだと思います。
 願わくばそれがひとりのところで終わるのではなく、もっともっと広がり続けていくことで、この宗門においてもハンセン病問題への取り組みというものがたて糸になるようにとの願いを、あらためて次回の第十回交流集会であきらかにしていきたいと思います。
 

《ことば》
ハンセンの業やな

その方は家族の葬儀に参列しなかったことを話してくれた。いわれ無き差別を受けてきた自分自身の内にもハンセン病を差別する心があることを話していただき、最後に少し自嘲気味に「ハンセンの業やな」とつぶやかれた。
 その言葉を聞いた時、長きにわたる国家の隔離政策による被害の根深さを思い知らされ、現在でも療養所の方にそんな思いをさせてしまっている現状に対して、自分に何が出来るのだろうと頭を抱えてしまった。
 真宗大谷派は隔離政策に協力してきた歴史を持つが、そのことへの懺悔から沢山の先輩がハンセン病問題に関わり、回復者、退所者の方々と信頼関係をつくろうとされてきた。先の言葉は、先輩方のそんな活動があってこそ語ってくださった言葉であろう。そのような療養所の方々との関係を、私はどう引き継ぎ、どう関わればいいのか考え続けている。
 隔離政策を含め国家や組織によって迫害が起きる時は、必ず正義や救済といった美名のもと行われる。私自身、求めて止まない「正しさ」こそが人を差別し迫害をもたらすのである。
 個人も教団も国家も、「正義」に立とうとすればするほど悲劇を生み出してしまう。そのことに敏感でありたいと思う。
(福井教区・佐々本尚)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2015年9月号より