韓国・ソロクト更生園 台湾・楽生院
植民地時代に創設された韓国・ソロクト更生園、
台湾・楽生院の歴史に学ぶ
<ハンセン病問題に関する懇談会委員 久米 ゆう子>
私が日本の植民地にハンセン病療養所が作られたことを知ったのは、ハンセン病国家賠償請求訴訟の後、日本の回復者と同様に「ハンセン病補償法」による補償を求める裁判の傍聴、支援に関わるようになってからのことでした。そこには台湾と韓国で日本の療養所と同様に「癩予防法」を適用し、国家管理と強制隔離政策を推し進め、ハンセン病患者に対する差別に加え、植民地下の民族に対する二重の抑圧と偏見・差別がありました。私たちの国が行った負の歴史をきちんと学び謝罪し、交流するため、これまで「ハンセン病問題に関する懇談会」に関わってきた人たちの有志で、二〇〇五年に台湾の楽生院を訪問し、翌二〇〇六年には韓国のソロクト(小鹿島)更生園を訪ねて以降、ほぼ隔年で十一回の訪問を続けてきました。
ソロクトは、韓国全羅南道の南端の港町・ノクトン(鹿洞)の対岸にある小島です。以前は連絡船で十分くらいの離島でしたが、二〇〇七年に架橋され、今はいつでも島へ渡ることができます。園内には病棟の他に、監禁室跡、断種室跡、火葬場、万霊塔(納骨堂)、刑務所跡、中央広場、つれづれの歌碑跡、ソロクト神社と拝殿跡等が点在していました。
来園3回目で許可されたソロクト
更生園の納骨堂での勤行(韓国)
日本の植民地時代の一九一六(大正五)年に朝鮮総督府によって、官立全羅南道慈恵医院が設立され、陸軍軍医の蟻川亨氏が初代院長に就任。一九三四(昭和九)年にソロクト更生園と改称され、一九三五(昭和十)年には「朝鮮癩予防令」により、朝鮮内の放浪する患者を集め隔離政策を強化し、一九四五(昭和二十)年の敗戦までハンセン病患者の隔離の島としてあり続けました。
原告の証言では、入院患者に日本の生活様式や、神社参拝を強要し、日常生活を厳しく統制して、諸規定を守らない患者に対しては職員が鞭で打つなどの処罰をしました。また、一九三六(昭和十一)年、「断種」を条件に夫婦同居が認められ、一九四一(昭和十六)年までに手術を受けた夫婦は八四〇組に達しました。さらに、脱走や反抗的態度や、神社参拝拒否などの理由で監禁し、そのほとんどが亡くなるか、生き残っても障害をもたずに園を出ることはなく、懲罰として「断種」が行われました。この「断種」は一九四五年の日本の敗戦後も、負の遺産として続けられました。二〇一五年に山陽教区で開催された交流集会に来日参加した氏は、解放後の一九四六(昭和二十一)年、八歳の時に入院されましたが、断種手術を受けています。
ソロクト更生園の納骨堂で
集合写真(韓国)
二回目に訪問したときの園内見学で、最後の仏教徒だという一人のハラボを紹介されましたが、入所者の多くはキリスト教徒のようです。これは、園では当初、患者に天照大神を信仰するように強要していましたが、第二代院長の花井善吉氏によって改められ、キリスト教の信仰を受け入れ、祭祀所を礼拝堂として許可し、その指導に日本から牧師を招いていたことによるようです。現在、遺骨は日本と同様に万霊堂(納骨堂)に骨壺や木箱がおさめられ、仏教式の法要が勤められています。
一八九五(明治二十八)年、日清講和条約により、台湾が日本に割譲され台湾総統府が設置。植民地支配が開始されました。一九二〇年代、当時全生病院(現多磨全生園)の院長・光田健輔氏が「台湾癩予防法制定ニ関スル意見書」を提出し、植民地のハンセン病対策を欧米人に任せていると、植民地支配が危うくなると警告しました。この意見書を受けて、一九三〇(昭和五)年に楽生院が開設されました。一九三四年に、日本の「癩予防法」を踏襲した「癩予防法」が台湾に公布されました。また、「無癩県運動」を模した「無癩州運動」も提起されています。日本の隔離政策を取り入れ、さらに植民地支配下という二重の差別が加わっています。
二〇〇五年六月、私たちが初めて訪問した楽生院は、亜熱帯植物が茂る山裾から中腹に建物が点在していました。園内中央に地下鉄工事の試削が始まっており、すでに入所者の八割が新病棟に移り住み、八十人余りの人が旧舎に分散して住んでいました。私たちは、地下鉄工事に反対し、終の棲家として旧居住地に住み続けている自救会のメンバーと交流を続けています。
楽生院の旧納骨堂での勤行(台湾)
地下鉄工事に伴い解体された納骨堂は、一九四三(昭和十八)年、真宗大谷派台北別院前輪番深奥九十氏が納骨堂建設を発意し、本山へ働きかけ、また台湾の信徒に説いて浄財を集めるなどの尽力により落成しました。また、納骨堂の扁額は大谷光暢法主が御染筆し、智子裏方が多額のお手許金を出したと楽生院慰安会発行の「万寿果」にあります。現在は新しい納骨堂が山手の中腹に建てられています。旧納骨堂ができたとき、それまで各宗教団体が入っていた施設から、遺骨の入った箱を胸に抱いて運んだ記憶があるとの証言もあります。現在、地下鉄工事の掘削のため、旧居住地の地盤沈下が激しく、居住が難しくなっていること、高齢化により入所者の病棟への移転が進んでいますが、病院での介護費用の負担ができず、十分な看護ができなくなっているなど、多くの問題を抱えています。
回復者の高齢化で、過酷で悲しい体験を語る方々が日一日と亡くなっていかれる現実に加え、言葉の壁が加わり、日本国内以上に厳しい状況です。「ハンセン懇」には、これら海外の療養所を担当する連絡会はなく、わずかに有志による交流と全国交流集会への招聘があるだけです。今後宗教的側面からの調査が一日も早くなされることを望みます。
※…おじいさんの意
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2018年6月号より