「聖徳太子の実像をめぐって」
(鶴見 晃 教学研究所元所員)
教学研究所では、歴史研究を研究業務の重要な柱の一つとしているが、現在力を入れているのは、二〇二一年に一四〇〇回忌を迎える聖徳太子の研究である。
揺らぐ「聖徳太子」像
二〇一七年、学習指導要領の改訂に際し、文部科学省は小学校用教科書では「聖徳太子(厩戸王)」、中学校用では「厩戸王(聖徳太子)」と表記する方針を打ち出した。これは研究動向を踏まえた変更であるが、多くの批判を受けて方針転換し、小学校用、中学校用ともに「聖徳太子」と表記することとし、中学校用では「聖徳太子」が後世の呼称であることを付記することとした。この「聖徳太子」の呼称問題は、国会でも取り上げられ、大きな話題となったので、記憶している方も多いだろう。こうした太子研究の動向が、「聖徳太子はいなかった !?」とセンセーショナルにマスコミに取り上げられたこともあり、僧侶の間でも戸惑いの声をしばしば聞く。そこで研究所では、現在の太子研究の動向を確認しつつ、現代において、真宗における太子の位置を考えるために、二〇一八年度から一九年度にかけて研究会を数回行った。その要点を報告したい。
二つの研究会
石井公成氏(駒澤大学、仏教学)は、聖徳太子非実在説を批判しつつ、聖徳太子の実像に迫る研究をされてきた。『聖徳太子 実像と伝説の間』(春秋社、二〇一六年)では、『日本書紀』の太子に関する記述が「独自の立場で潤色を加えているものの」「批判的な歴史学者が想定するよりは史実を反映した部分がある」とし、その実像を追求されている。
「聖徳太子といかに向き合うか─小倉豊文の太子研究を手がかりとして─」をテーマに行われた所内研究会(二〇一九年二月二十七日)では、小倉豊文(一八九九~一九九六、日本史・日本文学)が、太子信仰と歴史的実在としての太子を区別し、その実像を求めたことに触れ、太子の生涯を伝説が覆っているのは確かだが、その実在をすべて否定するべきではないとした。そして蘇我馬子が当時の権力者であったが、仏教関連は太子が主導していた可能性が高いとした。
これに対し、大山誠一氏(中部大学名誉教授、歴史学)とともに、聖徳太子は『日本書紀』が創作した人物で、実在しないとの立場を取るのが、吉田一彦氏(名古屋市立大学、日本史・仏教史)である。吉田氏には、「聖徳太子研究の現在と親鸞における太子信仰について」をテーマに講義をいただいた(二〇一九年十一月六日)。
吉田氏は、太子に関する史料と近代歴史学における太子研究を整理して、厩戸王は実在しているが史実と認められることはわずかであり、数々の事蹟のほとんどが創作であるとした。さらに『日本書紀』において創作された偉人としての太子伝に、寺の存続、興隆のため、法隆寺や四天王寺など太子関係寺院によって競って伝記が創作され、付け加えられていったことに触れつつ、「聖徳太子は、本体がほとんどなく、巨大な尾ひれがついているような存在」とし、近年の聖徳太子研究は「この尾ひれを研究すること」と、研究動向を整理した。
さらに親鸞の太子信仰については、初期の親鸞門流に太子信仰が見えるが、特定の門流に偏っているわけではなく、やはり親鸞自身に強い太子信仰があったと見るべきとした。さらに、六角堂への注目や門流で用いられた聖徳太子絵伝などから、四天王寺系の聖徳太子信仰の系譜に列なると指摘した。
研究所では、石井氏、吉田氏に加え、日本中世史の立場から佐藤弘夫氏(東北大学)、民俗学の立場から蒲池勢至氏(同朋大学)を招いて研究会を開催したが、誌面の都合上今回は報告できない。石井氏、吉田氏の研究会については抄録を『教化研究』一六六号(二〇二〇年六月発行予定)に掲載する予定であり、蒲池氏には論文を執筆いただく予定である。本号は聖徳太子を特集しており、所内からの論文も含め、是非ご一読いただきたい。
(教学研究所元所員・鶴見 晃)
(「教研だより166」『真宗』2020年5月号より)