本尊は掛けやぶれ

著者:藤田宏達(董理院長・北海道大学名誉教授)


「正信偈」の文意を簡明に解釈した蓮如上人の『正信偈大意』においても、冒頭の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の二句が「南無阿弥陀仏」という名号(みょうごう)に相当する趣意を示されていますが、その名号本尊について、『蓮如上人御一代記聞書』には、次のような上人の文言が伝えられています。

他流には、「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。
当流には、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり。

これは、蓮如上人の頃には、仏教各宗で木像や絵像の本尊を礼拝することが広く行われていたのに対し、真宗ではそれよりも、文字で書かれた名号こそが、御本尊にふさわしいとおっしゃっていたことを伝えたもので、皆様方もお聞きになったことがあると思います。

その名号として、蓮如上人は、初めは九字・十字の名号を用いておられましたが、後には「南無阿弥陀仏」の六字の名号を非常に多く書いて、門徒に下付(かふ)されており、それらが今日でも多数残っております。その書体は草書体ですが、文字は親鸞聖人が好まれた「无」を「無」と書き、「佛」の字を「仏」と書いて相違しているのが特徴的であり、紙に墨書されたためか、一々の裏書もございません。

このような六字名号の本尊について、同じく『御一代記聞書』にはこのように書かれています。

蓮如上人、仰せられ候う。「本尊は掛けやぶれ、聖教(しょうぎょう)はよみやぶれ」と、対句(ついく)に仰せられ候う。

これも、よく知られた文言ですが、ここで「聖教はよみやぶれ」とありますのは、聖教すなわち聖典をボロボロに破れるまで繰り返し読みなさいということですからよく分かります。しかしその対句として言われる「本尊は掛けやぶれ」とはどういうことでしょうか。これは少し分かりにくいのですけれども、おそらくこうであろうと思います。

蓮如上人の時代は、六字の名号を本尊として軸にして掛けてお参りをして聞法(もんぽう)することが多かったのでしょう。その場合、お参りが終わったら本尊のお軸を巻き上げて、しまっておき、次にお参りするときにお軸をかける。こうしたことを繰り返しやっていれば、御本尊のお軸は傷んで破れてきます。それを「本尊は掛けやぶれ」と言われたのではないかと思います。そうしますと、この文言は繰り返し繰り返し御本尊にお参りし聞法しなさいということ、南無阿弥陀仏という御本尊は決して飾り物や置物ではなく、お参りをするところに現においでになるのですということ、このことをお示しになったのではないかと思います。これは、御本尊が単なる礼拝の対象物ではないことを巧みに示唆されたもので、真宗における本尊を考える場合、非常に重要なことと考えられます。

 


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2014年版⑨)より

 

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2014年版)をそのまま記載しています。

 

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