「教化伝道研修」第三期第六回研修は、二〇二〇年二月四日から七日までの日程で開催された。「真宗における僧伽」というテーマのもと、鶴見晃教学研究所所員[当時]による発題、伊藤元氏(日豊教区德蓮寺前住職)による講義が行われた。また楠信生研修長(教学研究所長)より「聖教の学び」の講義が行われた。
 

   皆田みなた 世英としひで

 (大垣教区第十一組 法忍寺)
 

 第六回目は「真宗における僧伽」というテーマでの学びでした。

 課題別講義の際、講師の伊藤元先生が、「僧伽とは、単なる集団ではなく、本願念仏を求めている人の集まりである」と言われましたが、私自身の了解と大きな違いはありませんでした。様々な研修会や同朋会館補導の時、または自坊での報恩講など、様々な人と触れ合うなかで、そう思わせていただくことがあるからです。

 しかし、研修終了後に改めて「僧伽」について考えてみると、私自身の視座が課題となりました。私は、「僧伽は大切で、有難い」と頭では思っています。座談や法話でも「僧伽」という言葉を使います。しかし、伊藤先生の言われた「本願念仏を求めている人の集まり」ということに照らして考えてみると、私は本当に本願念仏を求めているのか、ということが問題となってきます。言葉としては理解していますが、本当の意味で「僧伽」としていただいているのか。わかったつもりになっているのではないか。私自身の「僧伽」の了解を振り返ると、実は都合の良い時だけ「僧伽」とみなしていることに気づきます。そこでは、選び、嫌い、見捨てている自分がいます。都合の悪いことを横に置いて、有難いと思う時だけ「僧伽」とし、大切だと思っている自分がいます。言い換えるとそれは、自分にとって単に居心地の良い共同体なのでしょう。伊藤先生は現代に生きる私達のことを指して「自分の知性、能力を信じ、自分なりの答えを作ってしまって、知らなくても知ったつもりになってそこから出られない」とおっしゃいましたが、それはまさしく私自身のことでした。

 研修や法要の場が「僧伽」であることは間違いありません。しかし、これにとどまらず、仏法僧の三宝のはたらきはこの世の中全てに開かれているのだと思います。そうなると、研修や法要の場以外にも、私の都合の良し悪し、好む好まざるにかかわらず、人と人が真に出遇うところには必ず「僧伽」が開かれ得るということになります。

 私は「僧伽」は賜るものであり、すでに賜っているものではないかと思います。問題は、それを「僧伽」としていただいていける私であるのかということです。私は凡夫であるという視座に立ち、弱さを認め、助けを求めることができるか。この課題を心に留めながら、丁寧に人と出遇い、今後も歩んで行きたいと思いました。

 もうひとつ、今回の研修で思わされたことは「自信教人信」ということです。私自身は、人に教えるという部分に違和感があり、この言葉が好きではなく、傲慢ささえ感じていた、と班で話をしました。しかし、先生は「教人信のない自信は単なる自己満足である」とおっしゃいました。教化ということを考える時、それは人と人との出遇いから始まります。教えも人から人に伝えられてきた歴史があり、自らの学びを人に伝えるということは学んだ者の責任であるとも聞きました。人に伝えていくということは、上から目線で教え込む、ということばかりを私は考えていましたが、そうではありません。そのようにすると私達は教化者意識というものに陥ります。先生は「門徒さん達は私達の教法に対する姿勢を見ているのだ」と言われました。言葉で伝えていくことはもちろん大切ですが、同時に姿勢や行動によって伝わる、背中で伝わることも大きいということを、私達は忘れてはならないのです。何より、八十歳を超えてもなお、遠く九州からお越しくださり、私達のために熱く語ってくださる伊藤先生の姿を通して、「自信教人信の誠を尽くす」ことを教えていただきました。

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   西野にしの 健太郎けんたろう

 (長浜教区第二十四組 充滿寺)
 

 今回の研修は全六回の全体テーマ「真宗同朋会運動の願いに学ぶ」が総括された内容だったと感じた。先生方の講義では同朋会運動に育てられた体験が話され、それは師友との出遇いによって見出された報恩の歩みであったからである。

 班別座談では、僧伽について話しあい、僧伽は場なのか関係性なのかが問題となった。自分がそこに居てもいいと感じられる場を作る重要性を感じる一方で、老若男女を問わず私達は好き嫌いの感情から逃れられず、集まる場を作ってもついには誰かを切り捨ててしまう矛盾に気づかされた。しかしその人間の感情を超えて、その場に込められた誰も見捨てないという仏の願いを依り処とするのが真宗の僧伽ではないか。その願いに気づくことができるか否かが、その場が僧伽となるのか単なる好き嫌いの集まりになるのかの違いではないだろうか。

 私がかつて大阪で仏教青年会に参加していた時、先輩からかけていただいた言葉が今も心に強く残っている。私が会に参加しだしたのは三十代後半であったため、メンバーの多くは私よりも若く、なかなか彼らに心を開くことができなかった。だんだんと青年会にいづらく感じはじめた私はやめようかと思い、先輩に相談した時である。「お前がどう感じようとお前の居場所はずっとここにある、ここはそういう場所や」と、去ろうとした私に温かく話してくださった。私はなぜか涙があふれ、とても感動した。そのことが今も忘れられない。大阪を離れて会に直接参加することはできなくなったが、今でも私は心の中では大阪の仏教青年会の一員であると思っている。

 「嫌わず、見捨てない」というのは容易ではない。発題・講義で共同体と僧伽の関係の話があったが、共同体とは組織であり広くは国家であると思う。そこには共に生きていくために必ず規律や法律が必要となってくる。そしてそれを守れないために切り捨てられる者が出てきてしまう。しかし、その守れない者を切り捨てる規律や法律は、本来は“共に生きる”ためにできたのであろう。原点は切り捨てることではない。この原点を忘れないことが、どのような共同体でも最も大事であると思う。しかしながら、これができないのが人間の共同体である。

 だからこそ仏の教えが必要なのではないだろうか。仏の教えの中心は共に生きたいという願いではないか。私達は口では共に生きたいといっても本当はそう思っていない、思えない。自分を中心としてしか考えられないからである。それが人間であり、そこしか生きられないのが人間の共同体である。そしてその人間を悲しみながらも、共に生きて欲しいと願いをかけ続けているのが仏ではないだろうか。また仏教の要は知識ではなく、そういう願いであると教えてくださったのが親鸞ではないかと思う。

 課題別講義の中で伊藤元先生は「仏法は人を通してしか伝わらない」とおっしゃった。私を見捨てずに包んでくださった先輩の言葉のように、「共に」という願いが人を通して伝わった時、自然に見出されるのが「真宗の僧伽」ではないだろうか。

 楠信生研修長が話された、僧伽を感じたという体験談のなかに「関係性に触れた記憶」という言葉があったが、それは仏の願いと私との関係性に触れた記憶ということではないだろうか。研修中に“人に会う”とはどういうことかが課題となったが、人に会うとはその人にかけられた仏の願いに触れるということではないだろうか。伊藤先生の「一切の人を同朋として見いだしていく人が念仏者です」という言葉から、一切の人にかけられた同朋として生きることへの願いを聞いていくことが“人に会う”こと、教えに出遇うことであり、現実の矛盾だらけの共同体を見捨てずに、共にという願いを生きるのが真宗の僧伽であると感じた。