忘弱無人
(名和 達宣 教学研究所所員)

今年の春、新型コロナウイルスの感染拡大によって、約二ヵ月間、自宅待機(在宅勤務)を余儀なくされた。

 

そのような状況に身を置くことで、初めて自分がいかに“忙しく”生きていたかということに気づかされた。それは単に、仕事を多く抱えていたという意味ではない。

 

毎日あくせくと足早に歩き、友人・知人、あるいは家族とすれ違っても、立ち止まらずに通り過ぎていたこと。毎日何本もペットボトルドリンクを買い、しかも味わうことなくただ水分摂取をしていたこと。そういった生活態度を含めた“忙しさ”である。「忙」という字は「心」と「亡」から成るが、まさに私は、心を亡くした落ち着かない日々を、何年にもわたって過ごしていたわけである。

 

そして待機期間、不安で先行きの見えない生活を送るなかで、自分がいかに無力で弱い存在であるか、同時にこれまでいかに強がってきたかということにも気づかされた。

 

よく脳裏に浮かんでいたのは、『寄生獣』(岩明均)という漫画作品のなかの一場面である。この作品は、人間の頭に寄生して他の人間を捕食する謎のパラサイト(寄生生物)と人間との戦いを描いたものであるが、私の頭のなかでリフレインしたのは、「田村玲子」と名のる高い知能をもつパラサイトが、物語の終盤に自らの死を予期して発した次の台詞である。

 

だが……我々はか弱い
それのみでは生きてゆけない
ただの細胞体だ
だからあまりいじめるな

 

脅威の存在だと思い込んでいた相手からの思わぬ告白に、主人公の少年はたじろぐ。そして私は幾度か反芻はんすうするうちに、これは他でもない、自分自身(人間)のことを指すと感じるようになった。人間は弱い存在としてこの世に生まれ、弱い存在として死に往く。「忙」と同じ成り立ちの字に「忘」があるが、私は自らが弱いという存在の事実を忘れるとともに、自らを支える他者の存在をも忘れていたのである。

 

ところで、『観無量寿経』のなかに「汝是凡夫、心想羸劣るいれつ」(『真宗聖典』九十五頁)という言葉がある。これは、釈尊が愁憂する人間・韋提希に対して投げかけたものであるが、親鸞聖人はその経言を「すなわちこれ悪人往生の機たることを彰すなり」(『教行信証』「化身土巻」、同三三二頁)と受けとめている。

 

ここから教えられるのは、第一に「凡夫」とは、「私は凡夫である」と自ら名のり出すものではなく、仏より「汝はこれ凡夫なり」と呼びかけられることによって知らされる事実であるということ。そしてもう一つは、その「凡夫/悪人」とは、劣った存在であるとともに、弱い存在(「羸」は「弱い・弱る」の意)であるということである。

 

我々は、誰もが弱く、それのみでは生きてゆけない──にもかかわらず、その弱さを忘れて強がってしまう愚悪な存在である。浄土真宗は、その「悪人」のためにこそ開かれた仏道であると、待機の時を通して確信した。
 
(『真宗』2020年9月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

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