研修期間延長について

 「教化伝道研修」第三期は当初、二〇一八年七月から二〇二〇年六月までの二ヵ年で実施される予定であった。二〇二〇年二月の時点で、第六回までの課題別研修が修了しており、四月の修了レポート事前相談会、六月の公開研修報告会・修了式を残すのみとなっていた。

 しかしながら、新型コロナウイルス感染症の状況に鑑み、教化伝道研修審査会において、研修期間を一年延長することが決定された。一年延長した具体的理由としては、新型コロナウイルス感染症が未収束であり、第二波・第三波が来襲することも考えられることや、公開研修報告会およびレポート事前相談会が宿泊や食事を伴う研修であることなどが挙げられる。研修生ならびに研修生を送り出してくださっている各教区の方々、ご家族など、関係者の方々にはご負担をおかけすることをお詫びするとともに、引き続き研修生の学びを護念していただくことをお願いしたい。

 教学研究所では、研修期間延長の決定を受け、その期間を「フォローアップ研修期間」と位置づけた。これまでの六回の研修において見出された課題を、生活や学習を通して確かめ、深めていくことを趣旨としている。その趣旨に則り、以下のような年間日程を予定している。

 六月二十四日(水)

オンラインでの意見交換会。研修延長期間趣旨についての伝達、および研修生二名の発題を受けての班別座談。

(詳細は本誌5頁参照)

 十月二日(金)

オンラインでの特別研修会。研修テーマは「真宗同朋会運動の願いに学ぶ」。亀谷亨教学研究所嘱託研究員による講義および班別座談。

 十二月八日(火)~九日(水)

一泊二日の特別研修会。研修テーマは「真宗同朋会運動の願いに学ぶ」。松林至教学研究所嘱託研究員による発題、楠信生研修長による講義、班別座談。

 二〇二一年二月二十四日(水)~二十五日(木)

修了レポートの事前相談会(一泊二日)。

 五月十八日(火)~二十日(木)

公開研修報告会および修了式(二泊三日)。

 研修延長期間が各自の課題を確かめ、学びを深めていく期間となるよう、研修生、研修スタッフ双方の努力が求められる。来年五月の公開研修報告会では、延長期間を含めた三年間の学びの内実が共有できること、関係者を始めとして多くの方々に公開できることを願っている。
 

研究と研修

 ここで二年間の研修を振り返り、教学研究所の研修担当として所感を記したい。個々の研修報告は、これまで本欄に研修生のレポートを掲載してきたので、そちらを参照いただきたい。

 教学研究所の業務は、研究・研修・編集の三つの領域に大別できる。その中で教学研究は、教えに学ぶことにより与えられた自覚を普遍的道理へと客観化することにより、その真実性を証する営みである。そこでは、個人の主観性を払拭するために、客観的な様式や型(規範)が求められる。例えば真宗学においては、「行信」・「真仮」などの教相がその型に当たるであろう。型なくしては恣意的解釈に流れてしまうゆえに、型に則って論証することにより、研究の営みの客観性を確保するのである。

 ところが研究においてはしばしば、思考を導く手段であるはずの型が、自己目的化するという問題が起こる。型にかなうことが研究の基準となり、その結果、諸文献を組み合わせ型に流し込むことが学問であるかのように錯覚してしまう。そこでは、自らが生きることと学問が乖離し、それによって学は普遍性を失い、蛸壺のように細分化されたものとなっていく。この問題は研究を専門とする者のみならず、教法に学ぶ者一般に通ずるであろう。研修とは、そのような状態に陥りがちな研究や聞法の質が問い直される場である。
 

「教化伝道研修」第三期の指針と基本

 研修の指針となる「研修のてびき」の開設趣旨文には、「現代を生きる人々の苦悩に教法が伝わるためには、(中略)自身の苦悩と真摯に向き合い、聖教に問いたずねていくことが肝要である」とある。自らの学びが、人間として生きる苦悩に根ざした普遍的な質をもつ場合、たとえ学びの対象が高度に抽象化されたものであったとしても、そこから紡ぎ出された言葉は伝わるものがあろう。

 私たちの学びがそのような質をもつものであるかを問う意味もあり、この第三期においては、六回の課題別研修それぞれにおいて、教学研究所のスタッフに発題する機会が与えられた。また、班構成については二年間を通して変更することなく、各班担当スタッフと研修生が関係を築き、関係性の中で学びを深めることを研修の柱としてきた。

 研修生は、各々の生活、仕事、法務等を通して、過疎、格差・貧困、差別等の諸問題を、肌身をもって感じ取っている。それらの「人間における諸問題」を通して、「人間それ自体が問題」となる仏教の視座を明らかにしていく役割をもつのがスタッフによる発題であり、班別座談における討究である。

 スタッフは発題およびその後の座談を通して、発題が伝わっているか否か等により、自己の研究の質が吟味されていく。同時に研修生は、生活の諸問題に対して向き合う姿勢、聖教に向き合う姿勢が問い直される。そのような研修生、スタッフの相互触発を基本としてきたのが、第三期の研修である。
 

教化伝道の要

 「研修のてびき」はまた、如来に悲しまれる「われら」の自覚において、共に教えを聞く場を創造していく「人の誕生」に研修の願いがあると述べている。教化伝道、すなわち教えが伝えられ、伝わっていくことの要は、この「われら」の自覚にある。教化は、ともすれば得た知識を一段高いところからべ伝えることになりがちである。そこでは、教法は私有された情報と化し、しかも同じ地平に立たずに伝達されることにより、相手との距離感を生み出してしまう。研修中、楠信生研修長からは度々、僧侶が「伝えることに慢心し、伝わることに無関心である」ことに対して問いが投げかけられた。それは、私たちが「教化」ということに対して、一体どのような姿勢であるのかについての問題提起であろう。

 研修はそのことを確認する場である。得た知識に慢心し、等身大の苦悩を自尊心の中で覆い隠してしまう私たちの虚偽が、教法と同朋の言葉により破られる。そのことによって、如来に大悲される凡夫の地平に帰すのである。そこに初めて、握りしめることで情報と化していた聖教の言葉が教法として蘇生し、自身は教法に共鳴する器と化されていく。

 そのような教法と自己との関係が道理としてありながらも、実際の研修においては必ずしもその通りにはならないのが、もどかしいところである。例えば第三期では、各研修で設定された諸課題を「正しく」理解し、その「正しさ」を所有する方向に流れた傾向もあるのではないか。自らの力不足を恥じるばかりである。はたしてこれまでの研修は、諸問題を通して「真宗」「同朋」という言葉に表現されるような人間の根本問題を明かす機縁となり得たであろうか。また、『大無量寿経』を正依とする宗祖親鸞聖人の生涯を憶念し、真宗の人間像を明かす機縁となり得たであろうか。

 研修期間が一年延長されたことは、新型コロナウイルス感染症拡大という非常事態による。しかしながらそこには、右に記したような問いかけを受けているように感ずる。延長期間においては、その問いかけに身を据え、如来の教化にあずかる研修となることを期したい。

(教学研究所研究員・中山善雄)

([教研だより(170)]『真宗』2020年9月号より)