-京都教区の大谷大学業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から2019年12月にかけて毎月、『すばる』という機関誌が発行されてきました。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!

真宗人物伝

〈27〉安丸良夫
(『すばる』748号、2018年9月号)

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安丸良夫写真 ※親鸞仏教センターHPより転載

 

1、真宗篤信地帯の砺波人

民衆思想史の研究者として知られる(やす)(まる)(よし)()(1934~2016)は、昭和9年(1934)6月2日、富山県東礪波郡高瀬村森清(南砺市森清)の農家で生まれました。戸籍上は三男ですが、安丸の生後間もなく次兄が急死したため、実質的には次男として育ちました。この地域では長男を「あんちゃん」と呼ぶのに対して、次男以下を「おっちゃん」と呼ぶことから、生家の屋号である「やすきゃ(安清屋)」と合わせて、村の人たちからは「やすきゃのおっちゃん」と呼ばれていました。

 

安丸家の手次寺は、井波別院瑞泉寺のほど近くにある誓立寺(高岡教区第4組、南砺市井波)という真宗大谷派の寺院です。所在する井波周辺は、民衆を基盤とする聖徳太子信仰の盛んな地域でもあります。少し遠方にあることから、月に数回の月忌参りには、隣村にある了泉寺(高岡教区第4組、南砺市三清東)の僧侶がお参りをしています。幼い頃には、朝夕2回仏壇にお参りをし、年に1度の「ほんこさま(報恩講)」では、「ごぼさま(御坊さま)」を招いて説教を聴聞していました。

 

このように、真宗篤信地帯である農村で生まれ育ったことが、その後の研究人生にも大きく影響を与えることになりました。

 

2、民衆思想史の研究者

昭和28年(1953)、19歳となる安丸は、京都大学文学部に入学します。故郷の田舎を離れて都会で学生生活を送ることを選択したのは「なによりも自分の精神に自立性を獲得して、人生や社会や人間が生きることの意味などについて、自由に考えてみたかった」からでした。

 

その後、大学院へ進学し、博士課程在学中の昭和35年(1960)、アルバイトとして大本教の開祖である出口なお(1836~1918)のお筆先(神のお告げによって書かれた教理文書)の解読作業を行うことになりました。そして大本教をはじめとする民衆宗教を本格的に研究していくことになります。

 

その成果は、昭和40年(1965)に発表された「日本の近代化と民衆思想」と題する論文に結実していきます。そこでは、戦後日本の啓蒙主義的な時代思潮のなかで前近代的・封建的などとされて来た「通俗道徳」(勤勉、倹約、孝行、正直などの民衆的な日常道徳)が、じつは民衆の自己規律と自己鍛錬の様式であり、それを通じて膨大な人間的エネルギーが発揮され、それが近代化していく日本社会を基底部で支えたと論じられました。

 

そして40歳をむかえる昭和49年(1974)、「歴史をおしすすめる根源的な活動力は民衆自身だという理解にた」ってまとめられた『日本の近代化と民衆思想』が刊行されます。

 

3、研究の背景を語る

58歳となった平成4年(1992)に刊行された『近代天皇像の形成』の「あとがき」で安丸は、天皇制にまつわる幼少期の体験を語る中で、浄土真宗の篤信地帯で生まれ育ったことを記述し、生家を「中農」と表現しています。

 

そして「通俗道徳」論がもともと安丸の個人史的背景と結びついた発想であり、真宗篤信地帯における自分の幼少期の経験を学問の言葉に組みなおして語ってみたいという気持ちがあったことを、平成11年(1999)に発表された「「通俗道徳」のゆくえ」という論考で述べています。また平成15年(2003)に地元の砺波散村地域研究所で開催された講演の記録である「砺波人の心性」で、その研究背景が詳しく記述されました。

 

戦後日本の歴史学を牽引した民衆思想史研究者である安丸良夫は、農村砺波の真宗門徒であったことから生み出されたのでした。

 

■参考文献

安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波書店、1992年、あとがき)

『安丸良夫集』1~6巻(岩波書店、2013年)

「第二部 安丸良夫インタビュー」(『現代と親鸞』第38号、親鸞仏教センター、2018年)

松金直美「地域真宗史フィールドワーク報告 富山県にみる近代真宗民衆史」(『真宗』2018年11月号)

 

■執筆者

松金直美(まつかね なおみ)