信仰に結論なし

著者:武田定光(東京教区因速寺住職)


「仏法が理解できてしまったなら、阿弥陀さんと縁切りだと思いなさい」と言われます。仏法はどこまで聞いても、ワクワクとひとを揺さぶり続ける不可思議なものです。決して、自分の知力で理解し尽くすことはできません。

もし理解し「わかった」となってしまったら、それこそ仏法の魅力は失せてしまいます。阿弥陀さんが「わからせよう」とはたらくことも不要になってしまいます。人間は、自分が「わかった、理解できた」と手に入れたものに対して、魅力を感じなくなるからです。つまり救われません。これは信仰のマンネリ化ですが、実はマンネリ化を起こしてくださるのも仏法の力です。

仏法は決して人間の手に入るようにはできていません。手に入れたい、信心を得たいと思うほどに魅力のあるものですが、決して手に入りません。何かが満ち足りないから仏法を聞くという聞き方もありますが、その「何か」がわからないのです。そして聞いていると、わかるようなわからないような状態が生まれます。昔から「薄皮(うすかわ)一枚がわからん」と言われてきました。人間は、「わかって」救われるものでなく、「わからん」と言って救われていくものです。この「わからん」にも二通りあって、「不満のわからん」と「満足のわからん」です。「不満のわからん」は、自己判断の「わからん」ですが、「満足のわからん」は阿弥陀さんからの応答の「わからん」です。大悲の応答に満たされて、一生、ワクワクと「わからん」を生きるのです。

『なぜ?からはじまる歎異抄』(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2017年版⑨)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2017年版)をそのまま記載しています。

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