阿弥陀仏は 光明なり 光明は 智慧のかたちなり

法語の出典:「唯信鈔文意」『真宗聖典』554頁

本文著者:狐野秀存(大谷専修学院長。金沢教区仁隨寺衆徒)


念仏は「仏から念われて仏を念うこと」です。口称の念仏は、私どもが自分の口に声を出して「南無阿弥陀仏」と言うことですが、その声になった「南無阿弥陀仏」の名号は仏の名のりです。阿弥陀仏が摂取不捨の心を私どもに知らせるために、声となって聞かせるために、因位の法蔵菩薩と名のって五劫思惟した仏法です。その本願念仏の仏法を深く信じることが真宗門徒の姿勢です。

この法語は、親鸞聖人の書かれた『唯信鈔文意 』に記されています。『唯信鈔文意』はその名の示すように、聖人が深く尊敬した聖覚法印(一一六七~一二三五)の『唯信鈔』に引かれた聖教のこころを、地方にいる同行のためにやさしく解き明かしたものです。

もとの『唯信鈔』では、念仏往生と深く信じる専修専念の念仏をすすめるための証文として、『仏説阿弥陀経』によって、名号を失わずにたもつ心得を述べた中国の善導大師の言葉が引いてあります。極楽は仏のさとりの世界であり、その極楽である阿弥陀仏の浄土へ私どものこころを開く念仏の行をすすめる言葉です。

親鸞聖人は善導大師の言葉を一文字、一句ずつていねいに解き明かしながら、その一切の衆生、悪人凡夫を摂取して助けようとする阿弥陀仏のはたらきを「阿弥陀仏は、光明なり。光明は、智慧のかたちなりとしるべし」と結論されているのです。

真宗門徒が「弥陀成仏のこのかたは」とともに一番親しんでいる和讃は『弥陀経和讃』の第一首目でしょう。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる    (真宗聖典四八六頁)

「摂取不捨」が「阿弥陀」ということなのです。

「阿弥陀」はインドの言葉の音を写したもので、中国の人は「無量」と言いあらわしました。量ることではないということです。明けても暮れても、物を、人を、そして何よりも自分自身を量って、いい気になったり、また逆に落ち込んだりすることを繰り返しているのが私どものすがたです。しかし、その私どもを生かしている阿弥陀のいのちは「あなたは、あなた自身を生きなさい」としずかに呼びかけているのです。その阿弥陀の声なき声の呼びかけが、私どもに聞こえる声となったのが「南無阿弥陀仏」の念仏です。光の阿弥陀仏はどんな人も必ず念仏の人に変え成すのです。

私の生まれた石川県の金沢では、お盆の墓参りにキリコ灯籠をあげる風習があります。二十センチ四方の四隅に細木を立て、紙をはりめぐらして家に見立てた作り物に、雨にぬれないようにへぎ板の屋根をかぶせたものです。正面に「南無阿弥陀仏」の名号が印刷してあります。横の面にキリコをあげた人の名前を書きます。時おり、あまった面に「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と『観無量寿経』の言葉を書かれる人がいます。

お互い、今生この世にあるかぎりは、愛憎違順することをまぬがれませんが、墓前で亡き人を想う時、その無明煩悩の身を念仏の中でやさしく迎え取る阿弥陀仏の光の心を憶い起こすうるわしい風習だと思っています。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2018年版【表紙】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2018年版)発行時のまま掲載しています。

東本願寺出版の書籍はこちらから

東本願寺225_50