「放逸ならざる心」
(松下 俊英 教学研究所助手)
仏教では、自己のほしいままに過ごすことを「放逸」と言い表し、避けるべきこととする。そして、その反対を「不放逸」と言い、仏道を歩む上で大切なことと教えている。
『仏本行集経』という経は、四門出遊の場面を描写する際、ゴータマ・シッダールタが、他者の老病死を見て恐懼し、城に戻って後、自己のほしいままに過ごしたと記している。それは、老病死という事実を、娯楽によって、ごまかし、覆い隠し、忘れようとした姿が描かれているということである。しかし、ゴータマは、そのように過ごすことに満足できず、すべてを投げ捨てて出家した。それほどまでに、ゴータマにとって、老病死は重い課題であったのである。
そして、ついに正覚を得られた釈尊は、五比丘に初めて教えを説く際、二つの極端(二辺)に近寄ってはならない、と中道を説かれた。その極端の一つが苦行であり、もう一方が、先に示したような、ほしいままに過ごすことだと語られている。
さらに、大乗経典の『大般涅槃経』ではない、上座部所蔵の『大般涅槃経』では、釈尊が亡くなられる間際、弟子たちに、次のことを最後に語られたとされる。
また、天親菩薩(紀元後五世紀頃)の著した『倶舎論』では、「悪しき心のはたらき」として「放逸」が挙げられる一方で、「善き心のはたらき」として「不放逸」が挙げられている。その不放逸を注釈して、天親菩薩は「諸々の善き法を実習することが不放逸である」と説き示す。
さて、老病死を免れないと知りながらも、刹那的な楽しみで、その事実を覆い隠そうとする私がいる。もっと言えば、健康で元気がある今だからこそ、一度切りの人生、欲するままに楽しもうという思いも見え隠れする。放逸そのものである。
だから、釈尊の「不放逸に努めなさい」という言葉は、「あなたは常に放逸なる心に染まり、支配される存在である」ということを、突きつけた教説なのだと考えなければならない。したがって、そこには、老病死が、本当に自己の課題となっていないということが露呈されていることになる。
であれば、先の天親菩薩の「諸々の善き法を実習することが不放逸である」というのは、老病死を課題とするということが、善き法を実習することになるのではないだろうか。それは「自分の老病死」だけを問題とするのではない。若きゴータマと同じように、まさに「他者の老病死」が現前の事実として見えたところに、同じその身を生きる者として、真に老病死が自己の課題となるのである。
真に老病死が自己の課題となった時、それを超える道を求めることが生じるであろう。そして、道を求めることが生じるならば、仏の教えを聞かんと欲するであろう。その聞法せんと欲する時こそ、放逸ならざる心が相応する時なのである。
(『ともしび』2021年3月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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