地域真宗史フィールドワーク報告 東本願寺周辺の地域性(2)
(松金 直美 教学研究所研究員)
はじめに
真宗大谷派教学研究所では『真宗』二〇二一年四月号(拙稿「地域真宗史フィールドワーク報告 東本願寺周辺の地域性」)で報告した通り、東本願寺の歴史を周辺地域との関係を通して考えるべく、「東本願寺周辺の地域性」をテーマとしたフィールドワークを二〇二一年一月二十五日に実施した。その結果、(1)伏見・大坂とつながる交通の要所である一方で、(2)遊廓や被差別部落という周縁社会が形成されてきた歴史を有する地域性が確認された。
本年四月二十二日、この課題について、さらに探究しようと、武田未来雄所員・名畑直日児研究員・都真雄助手・藤原智助手ならびに筆者は、再びフィールドワークを実施した。
なお、新型コロナウイルス感染症のまん延防止等重点措置が実施されている中であったため、対策を十分に講じた上で行った。
一、京都鉄道博物館――交通の要所として――
日本最初の鉄道が一八七二(明治五)年に新橋─横浜間で開業されてから五年後の一八七七(明治十)年、京都─神戸間の開業にともなって七条停車場(現・JR京都駅)が設置された。これにより、それまでの陸運や高瀬川を介した水運から鉄道へ、交通の主流が移行していくこととなった。
東本願寺がまず鉄道の恩恵を受けたのは、両堂再建に際してであった。幕末の一八六四(元治元)年、禁門の変の兵火によって四度目の焼失に見舞われた東本願寺であったが、幕末維新期の動乱期にあって、再建事業は停滞した。一八七九(明治十二)年になってようやく再建が発示され、翌一八八〇(明治十三)年十月に釿始式が行われた。同年、各地から運ばれた用材を七条工作場へ運ぶため、七条停車場─七条工作場間に鉄道を敷設する工事が進められた。それは、両堂再建事業において、大いに活用されることとなった。
鉄道網が全国的に整備されていった一九一一(明治四十四)年、東西本願寺は「親鸞聖人六百五十回大遠忌」を迎える。東本願寺では四月十八日から二十八日まで、法要が厳修され、鉄道を利用して全国から団体参拝者が京都へ詰めかけた。
当研究所では「宗門近代史の検証」という課題への取り組みの一環として、『関根仁応日誌』全八巻(二〇〇六~一六年)を刊行した。これは当派宗務総長や大谷大学学長などを歴任した関根仁応(一八六八~一九四三)が書き記した日誌である。その中に、関根の地元・新潟県からの、親鸞聖人六百五十回大遠忌への「団参」(団体参拝)に関する記述がみられた。筆者は以前に、宗門の機関誌である『宗報』など、本山刊行物の内容と照らし合わせながら、『関根仁応日誌』活用の意義を提示する中で、鉄道を利用した団参について紹介している(拙稿「『関根仁応日誌』にみる真宗教団史・地域真宗史」『教化研究』第一六四号、二〇一九年)。
一九一一年二月二十五日、東海道本線の京都停車場と桂川信号所の間に、梅小路仮停車場が設けられた。それは二月下旬から四月下旬にわたる期間中、京都を発着する東西本願寺および知恩院の大法会に参拝する団体旅客のためであった(達第一〇七号「東海道本線梅小路仮停車場設置及其他」『鉄道公報』明治四十四年二月二十日号、京都鉄道博物館所蔵)。
同年九月十五日、『宗報』へ掲載された写真も含めた『大谷派大遠忌記念帖』が発行された。そこには七条停車場梅小路仮駅(東行)前の「団体参拝者帰途ニ就ク」様子を撮影した写真【写真1】が掲載されている。
前掲した『関根仁応日誌』に関する拙稿執筆の過程で、京都鉄道博物館が所蔵する写真帖に、梅小路仮駅(西行)前で撮影された、東本願寺関係者を含む集合写真【写真2】があることを知った。集合写真の背後に、東本願寺で用いる五環紋の旗が掲げられていることから、そのように判断できたのである(京都鉄道博物館学芸員・廣江正幸「(68)梅小路仮駅と梅小路駅」〈『京都新聞』二〇一七年九月十九日号〉)。
そこで同館に問い合わせたところ、写真帖をはじめとする関係史料を閲覧できることとなった。その写真帖は、一九〇九(明治四十二)年五月に兵庫から京都に赴任した鉄道員のものであった。様々な集合写真の中に【写真2】が含まれていたのである。写真の横に記載された説明書きから、阿部恵水宗務総長(当時)をはじめとする東本願寺関係者と、梅小路仮駅鉄道員が、一九一一年四月に、東西各地からの団体参拝者輸送を記念し、集合して撮影したものと分かった。宗門の刊行物に掲載された【写真1】と同じ梅小路仮駅を背景にした写真が、鉄道員のもとで保管されてきたのであった。
また同館で紹介いただいた「本願寺宗祖大師六百五十回忌記念京都市街地図」(京都鉄道博物館所蔵)に、梅小路仮駅とみられる「臨時本願寺参詣下車駅」が「千本八条」にあることや、路面電車「東寺道」駅付近に「東本願寺参詣者宿泊所」があることも確認することができた。梅小路仮駅の詳細な場所は、これまで特定できていなかったようであり、貴重な史料である。
【写真1】「団体参拝者帰途ニ就ク」(『大谷派大遠忌記念帖』)
【写真2】梅小路仮駅前集合写真(京都鉄道博物館所蔵)
同期間に、東西本願寺に加えて知恩院の大法要も執行されたため、数多くの参拝者が見込まれた。そのため梅小路仮駅が特設され、臨時の団体列車による輸送が推奨されたのだ。この梅小路仮駅は、五月五日でその役割を終えて閉じられている。
その後、梅小路の地には、貨物専用駅の「梅小路駅」や、機関車の整備・点検をする「梅小路機関区」(現・梅小路運転区)が設けられた。そして二〇一九年三月十六日、梅小路京都西駅が開業したのだが、それより南下した位置には百年以上前、大遠忌参拝者を迎えるため、ごくわずかの期間のみ、「幻の特設駅」とも呼ばれる駅が設置されていたのであった(「親鸞法要に幻の特設駅」『読売新聞』二〇一九年九月二十一日夕刊)。
二、覚正庵――門徒職人の存在――
続いて京都府仏具協同組合の組合員である覚正庵(京都市南区)を訪問した。
四代目の米澤正文氏は、二〇一七年十一月に、小川貴史氏から同氏作の彫刻作品三点(「大海の絆」「魂の分銅」「小川の歌」)をしんらん交流館(二階に展示中)へ寄贈いただいた際に、取り次いでくださっている。正文氏は長覺寺(京都教区山城第一組)のご門徒で、長年、熱心に聞法されてきた方である。
先祖の米澤与四右衛門は、石川県石川郡米永(現・白山市)で宮大工をしていたところ、明治期の東本願寺再建に従事するため上洛した、と伝えられている。東本願寺の再建を支えた門徒である職人の足跡を確かめるべく、子孫である四代目・正文氏ならびに五代目・正隆氏から言い伝えをお聞きして、関係史料を閲覧させていただいた【写真3】。
【写真3】覚正庵にて図面資料閲覧
与四右衛門の子息は次右衛門といわれ、同家ではこの次右衛門を初代とする。与四右衛門が京都に住所を移したのは一九〇三(明治三十六)年である。当初は、東本願寺からほど近い佐女牛井町(京都市下京区)に居住していた。年未詳だが、出身地である石川県米永の人物から、初代・次右衛門に宛てられた荷札も残る。当初は、地元・石川県との往来や交流も頻繁に行いながら再建事業に従事し、しだいに京都へ拠点を移していったのではなかろうか。
覚正庵には、御影堂・阿弥陀堂の木口図(平面図)や再建事業で使用された大工道具なども伝来している。正文氏・正隆氏のお話を通して、代々、ご門徒として教えに生きることを大切にされながら、本山・東本願寺のみならず、各地にある寺院の建築・修復にたずさわられた職人であったことが感じられた。東本願寺近くに居住していた先祖は、聞法生活の中で、職人として両堂再建事業に従事していたのではなかろうか。両堂再建が成就した背景には、このような数多くの門徒職人の存在があったことであろう。
三、大佛柳原庄の庄屋・今村家――周縁社会をめぐって――
前回のフィールドワークでは、崇仁地区にある柳原銀行記念資料館(京都市下京区)の事務局長である山内政夫氏から、この地に被差別部落が置かれた歴史について、現地を歩きながらご教示いただいた。同地区に近世にあった六条村は、都市開発や厳しい差別に翻弄されながら、六条河原から移転してきたのであった。
この六条村は大佛柳原庄の領域に含まれる。柳原庄の大半は天台宗門跡・妙法院(京都市東山区)の領地で、その庄屋(村役人)を代々勤めていたのが今村家である。同家は戦国期以来、京都近郊の伏見街道沿いで地域の有力者として代々続いてきた家という。数多くの文書が伝来し、二〇一五年、今村家文書研究会編『今村家文書史料集』上・下巻(思文閣出版)が刊行された。
今村家文書は総点数約六七〇〇点あり、一五三一(享禄四)年から一九四七(昭和二十二)年の約四〇〇年にわたる史料によって構成されている。そこには崇仁地区の前身である、近世の被差別部落(銭座跡村、銭座跡村出村、大西組〈小稲荷〉、七条裏非人小屋)に関する史料が含まれている。
山内氏の案内で今村家(京都市東山区)を訪問し、現当主の今村壽子氏(元・京都市教職員)から、文書を公開し、史料集が刊行されるまでのいきさつについてお話をお聞きすることができた【写真4】。
【写真4】山内氏[左端]・今村氏[右から二人目]からお話を聞く(今村家にて)
今村氏は以前から文書の存在を知りつつ、人権問題に関わる記述を含むことから、慎重に扱うべきと考え、公開を控えていた。一方で、文書の性格を理解した上で研究してもらえるなら、公開していくことも大切ではないか、とも考えておられた。
公開のきっかけになったのは、一九九七(平成九)年十一月二十八日に柳原銀行記念資料館が開設されたことであるという。同館の研究グループの一員の方から開設記念の特別展チラシを受け取った際、今村家文書の存在を伝えた。公開を躊躇している理由も伝えたところ、問題を理解した人たちのグループで調査研究を進めることができると言われ、公開に踏み切られたという。そして同年から、山内氏も含む、のちの今村家文書研究会の主要メンバーによって調査が始まり、十八年かけて、史料集の刊行に至ったのであった。
おわりに
二回のフィールドワークを通して、周辺地域、そして交通網を介して往来した全国各地の僧侶・門徒との関係によって存立してきた東本願寺の姿を、地域・民衆の視点からとらえることができたように思う。
周辺地域のうち、特に被差別部落の歴史に着目した。その歴史を明らかにする上で、これまで主に、六条村年寄が書き残した「諸式留帳」が活用されてきた。さらに近年、今村家文書が公開されたことで、京都の部落史研究の進展が期待されている。今村家文書には、真宗寺院に関する記述も含まれる。それらを読み解くことで、被差別部落にある真宗寺院が地域社会の中で果たした役割を明らかにすることもできるだろう。
山内氏は、従来、断片的に知られていた崇仁地区の歴史が、今村家文書の情報によって一本の線でつなぐことができると語られた。これまで被差別民衆とその支配者層である庄屋・今村家のような存在は、分断していたように漠然とイメージされてきた。しかし史料に基づく事実を丹念に読み解くことで、そのような歴史観が覆される可能性を指摘された。
一九七一(昭和四十六)年、「部落」をテーマとし、「諸式留帳」も掲載された『日本庶民生活史料集成』第十四巻が刊行された。「部落解放を進めるためには(中略)部落がどのようにしてつくられ、差別がいかなる形で生れ、それがいかにして遺されてきたかという歴史的背景を明らかにすることが重要である」として、主に近世史料と明治初期のもの一部が掲載されている。本巻は、全国水平社創立五十周年を迎えた同年に「ささやかながら基本的人権の確立、部落差別完全解消への一助たらんことを記念して」刊行されたのであった(原田伴彦「部落 序」『日本庶民生活史料集成』第十四巻・部落、三一書房、一九七一年)。
このように部落問題への取り組みとしても、関係史料の収集・公開と部落史研究が、これまでも進められてきた。来年(二〇二二年)、全国水平社創立百周年を迎える。社会や真宗の歴史を考える上で部落史に向き合う必然性を、いま一度、問うていきたい。
(教学研究所研究員・松金直美)
([教研だより(181)]『真宗』2021年8月号より)※役職等は発行時のまま掲載しています