亡き人と朋に

 

著者:岩佐 幾代(岐阜高山教区 淨永寺前住職)


お盆は、仏教行事の一つですが、特に、亡き人を偲ぶ中で、お参りなどをとおして仏の教えに遇うことが大切です。亡き人とは、その機縁を結んでくださる大切な人なのです。だから、私たちは「亡き人」を諸仏と仰ぎ、亡き人、諸仏をとおして阿弥陀仏に手が合わさるのです。

 

「死」ということについて、本願寺第三代覚如上人は、「人間の八苦のなかに、さきにいうところの愛別離苦、これもっとも切なり」(「口伝鈔」『真宗聖典』六七二頁)と言われています。

 

特に、愛する人の死は、身を切られるような悲しみ・苦しみであり、それは死す者も生きている者も、同じように味わわねばならない「苦」であると。この苦を苦として終えていくのか、それとも苦をとおして「亡き人と朋に」私たちのはからいを超えた無量寿なるいのちに出遇っていくのかが問われています。この無量寿なるいのちこそ、「阿弥陀仏の願い」です。

 

金子大榮師のお言葉に、「仏法は 死を問いとして それに応えるに足る 生を求める道である」と、あります。

本当にその通りだと思います。

 

愛する人の死において、人は大きく育ちます。前(さき)に生命を亡くした者が「無量寿なるいのちに目覚めよ」と私たちを導くのです。亡き人のためにと思っている私が、実は、亡き人から願われている存在なのです。

 

あるお母さんが、こんな話をされました。

「初めての子を事故で亡くしました。眠れないほど辛く、悲しい日々の中で子のためと思いお経をあげ、聴聞に励みました。六ヵ月も過ぎた頃でしょうか。亡き子が、私の親のように思われました。私を真の人間にするために、私の子として生まれ、死んで逝ったのだと思ったのです。それからずっと息子のことを「戸籍上は我が子ですが、実は私の親であった」と私を育てるために「我が子」として生まれてきてくれたのだと思われ、“ありがとう”とお念仏申しています」。

 

阿弥陀仏のお慈悲を直接いただくことは、私たちには大変難しいことです。その間を結んでくださる方が必要です。亡き人は、その役目をしてくださっているのです。亡き人に導かれて阿弥陀仏の教えに遇い、阿弥陀仏の願いの中にありながら、そのことを知らず、迷い続けている私に気づかされるのです。

 

私たちは、常に損得、優劣に心を奪われていますが、せめてお盆中なりとも、静かに手を合わせ、亡き人に憶いを馳せ、阿弥陀仏の声に耳を傾ける時を送りたいものです。

 


東本願寺出版発行『お盆』(2019年版)より

『お盆』は親鸞聖人の教えから、私たちにとってお盆をお迎えする意味をあらためて考えていく小冊子です。本文中の役職等は発行時のまま掲載しています。

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