本願をききて 疑うこころなきを 聞というなり

法語の出典:「一念多念文意」『真宗聖典』534頁

本文著者:小野賢明(金沢教区潮音寺住職)


昔、好きだったドラマで、その回の最後に次のような台詞がありました。

 

「愛ってのは、信じることですらないのかもしれん。愛ってのはただ……疑わないことだ」。

 

犯罪歴の発覚した恋人を信じることができずに、自分の大切なものを盗み、自分を騙しているのだと疑って、その結果恋人を死なせてしまった一人の女性に、主人公が「信じなきゃいけなかったんだよ。愛してるんなら……」。「愛って信じることなのに」。と語ります。その言葉を受けて、もう一人の主人公が語った言葉が前述の台詞です。

 

私たちは、生活の中で、殊に対人関係において、「信じる」ということをとても重要な欠かすことのできない要素として受けとめています。家族を信じ、友を信じ、大切な人を信じ、相手を信じ、同様に自らもまた相手から信じられることにより、信頼関係が成り立っているのだと思っています。しかし、それは、「信じよう」という意識を明確にもって信じているのでしょうか? たぶんそうではないはずです。意識的に「信じよう」とせずとも、いつの間にか自然に成り立っているものではないでしょうか。むしろ人間の心というものは、意識的に「信じよう」とした時には、信じようとすればするほど、それと同時に「疑い」の心が出てくるのではないでしょうか。人間における「信」という心には、潜在的に「疑」がひそんでいる、それが人間の心です。

 

法語の言葉は、親鸞聖人の著書『一念多念文意』の中の『仏説無量寿経』における第十八願成就文と了解される「聞其名号」という言葉を聖人がいただいておられるところに記されています。

 

名号とは、仏の御名ですが、その名とは単なる名ではなく、衆生への名のりです。「本願招喚の勅命」として衆生を喚び覚まさんとはたらき出る阿弥陀如来の願心の名のりであります。その本願の名号を聞いて、疑うこころなきを「聞」といい、続けて「きくというは、信心をあらわす御のりなり」と記され、さらに「信心は如来の御ちかいをききて、うたがうこころのなきなり」と表されます。「聞」ということがそのまま「信」という課題へ展開します。

 

「聞」「信」ということについて、親鸞聖人は「疑うこころなき」とおさえます。「疑」という課題は、人間存在の根底にある問題です。疑いたくて疑うわけではありません。ただ、人間の心というものは、「自己執着」という煩悩にとらわれ、潜在的に「疑」をはらみ、信じようとすればするほど、疑の心が起こってくるのです。聖人はむしろ、『教行信証』「後序」において「信順を因とし疑謗を縁として」(真宗聖典四〇〇頁)と表すように、人間存在の根底にある「疑い」をも仏道の縁にしてほしいと願われます。

 

それは、つまり親鸞聖人の言う「疑うこころなき」ということは、人間の心において「疑わない」ということではないということです。むしろ自己心の交わらないところにこそ、「疑うこころなき」ということが実現されてくるということです。自己心を交えず、如来の本願のはたらきのままに、本願の名号の名のりを聞きあてるところに、「疑うこころなき」「聞」「信」という課題がいただかれてくるのであります。

 

 


東本願寺出版発行『今日のことば』(2018年版【3月】)より

 

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2018年版)発行時のまま掲載しています。

 

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