真実・方便ということ
(楠 信生 教学研究所長)

かつて、ある先生から、「方便」のサンスクリット語「ウパーヤ」について「近づく」というのがもともとの意味であることを聞かせていただいた。その先生は、サンスクリットを専門分野とされる方ではないが、方便の原語について調べられたのであろう。

 

方便のサンスクリットがウパーヤであり、「手段」「方策」などと現代語訳されることは知られている。しかし、その先生が方便の意味を「近づく」と言われたのは、ほかでもない、方便の目的・対象が先生ご自身、つまり仏が自分自身に「近づいてくださる」ことであるという受けとめにもとづいていたのである。このような視点はなかなか持ちえないのではなかろうか。私自身、方便とは、仏菩薩が衆生一般を教え導く手段・方策という了解にとどまっていた。先生の解釈は当然と言えば当然のことである。実際問題として、教えを聞き学ぶ時、自らが説法の対象たる「機」であるというところに立たなければ、聴聞にはならないのである。

 

真実ということについても同様のことが言えるであろう。真宗の学習をするとき、真実をより正確に理解しようとして多くの文字を追い、納得できる言葉に出会えば意を得たと思う。その時、その者にとって方便ということは、比重が低められ、問題の核心の外にあり、補助的な意味しか持ちえないのではないか。

 

このような、人間の関心にもとづいて真実と方便に価値づけをする了解では、とうてい仏意・仏願を明らかにすることはできない。

 

「化身土巻」に親鸞聖人は三経の真仮について御自釈される。

 

しかるに今『大本』(大無量寿経)に拠るに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には方便・真実の教を顕彰す。『小本』(阿弥陀経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもって三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなわちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。 (聖典三三八~三三九頁)

 

『大無量寿経』が真実とするところは「至心信楽、欲生我国、乃至十念」という第十八願の心にある。その真実によって方便の願、すなわち第十九願・第二十願が起こされている。方便の願が仏によって起こされる理由は、ひとえに衆生の修諸功徳のこころ・植諸徳本のこころにある。衆生の修諸功徳・植諸徳本のこころをみそなわして願が起こされた。それが方便ということである。真実・方便の願を超発し、方便・真実の教を顕彰された。真実・方便と言われるときの方便とは、真実ならざるものということではない。真実の利他的展開なのである。ここに大悲無倦ということがある。

 

そして衆生の側から言うならば、「近づく」ということは、自分自身が仏から遠い存在であるということになる。しかもその遠さは、孤独を感ぜしめる遠さではなく、讃嘆と懺悔を生ぜしめる遠さなのである。ここに至って金子大榮先生の言葉が思われる。

 

自分といふものの中に仏を見い出すのではなくて、仏の大いなる光のうちに自分といふものを見出してゆくこととなった、それが浄土の教へである、かういつてよいのであります。(金子大榮『尊号真像銘文講話』下巻、あそか書林、一九五九年、一三九頁)

 

(『ともしび』2021年11月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)

 

お問い合わせ先

〒600-8164 京都市下京区諏訪町通六条下る上柳町199 真宗大谷派教学研究所 TEL 075-371-8750 FAX 075-371-6171