「たもちやすく、となえやすき」
(教学研究所助手・藤原智)

十年以上前だろうか、老人介護施設へ親戚のお見舞いに行ったときのこと。面会手続きの時間待ちでボーっとしていると、見知らぬおばあさんに話しかけられた。どのような流れだったのか全く覚えていないが、私が寺の人間だという話になった。そこで言われた言葉が妙に記憶に留まっている。
 
あなたはどこの宗派?   うちはきみょーむりょーじゅにょらい。

 

思いがけない言葉に苦笑しつつ「あぁ、浄土真宗ですね」と言うと、あまりピンときていなかったようなので、「うちもきみょーむりょーじゅにょらいですよ」と答えたことであった。相手が誰なのかもわからないままの不思議な会話であったが、しかし今に思い返すほど印象に残っている。
 
言うまでもなく、「きみょーむりょーじゅにょらい」(帰命無量寿如来)は正信偈冒頭の一句であり、南無阿弥陀仏の異号である。
 
最近、辻本雅史著『江戸の学びと思想家たち』(岩波書店、二〇二一年)という本を読んだ。近代以降には失われた「型」がそれ以前にはあり、それは幼少期の素読体験によるとする唐木順三の議論の紹介から、本書は始まる。素読は、儒学の四書五経などをテキストの意味理解は問わないまま暗誦するものだ。著者も乱暴きわまりない学習法と指摘するが、そこに〈テキストの身体化〉があるのだという。
 
四書五経などまったく解さない私には、そのような素読体験に培われる〈知の型〉など想像もつかない。ただ、ふと思ったのが、〈テキストの身体化〉と言えばわずかだが似たような個人的体験はある。そう、正信偈だ。
 
どれだけ思い返しても、正信偈を初めて聞いた/読んだ、という記憶はない。覚えているのは、小学校低学年の頃、「僕はお経が読めるで」などと言って、友達に正信偈の一節を自慢げに聞かせていた、といったこと。私の意識の底にはいつだって正信偈の響きがあった。一句が出れば、続く句は意識する前に自然と流れ出て来る。いや、意識すると出てこない(だからお勤めの時は勤行本を手放せない)。そして当初、言葉の意味を理解してはいなかった。
 
言葉の意味を少しでも知ったのは、大学で真宗学を学ぶようになってから。自分の口をついて出る言葉には、そういう意味があったのか。ほーぞーぼーさーいんにーじー、これは南無阿弥陀仏のいわれだったのか、と。
 
知識は忘れてしまうもの。例えば、七高僧のお仕事を一つひとつ覚えていることができない。けれども、正信偈は自然と出て来る。出て来た言葉について考えれば、七高僧のお仕事も思い出されてくる。南無阿弥陀仏の歴史が、自分の身に埋め込まれている。
 
何かあったとき、ふと想起される。ぼんのーしょーげんすいふーけーん だいひーむーけんじょーしょーがー。あぁ、自分は自分の殻に閉じこもって、他人と共に在ることができない。何と高慢な生き方をしていることに気付いていないのか。そんなふうに振り返らせられる、自分でない言葉が、自分にあるのだ。

 

(『真宗』2022年3月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

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