葬儀式に思う
(安藤 義浩 教学研究所嘱託研究員)
葬儀式。礼服に身をつつみ、厳粛な雰囲気のなかで、故人を偲ぶ大切な儀式だ。導師をつとめる私にとって、日々の生活のなかで、さまざまな思いが最も浮かび上がってくる時間である。
入場後、まず「おかみそり」(帰敬式)を行う。生前の授式は自坊ではまだまだ少ない。棺のなかの故人はきれいに化粧が施され、お顔は安らかで、ほとけさまである。自然と手が合わさる。亡くなりかたはいろいろである。老衰、肺炎、事故、コロナのため、先に火葬してから行う骨葬もあった。「娑婆の縁つきて、ちからなくしておわる」(聖典六三〇頁)、『歎異抄』の言葉が響く。死因は娑婆の縁がつきたことだ。その縁がつきるまで、娑婆での責任を果たさねばとの思いを再認識する。往生は死後か現生かについての議論が近年さかんである。しかし仏教は「仏に成る教え」であるから、成仏のところから往生や浄土について考えることを忘れてはいけないと自戒をこめて思う。「安養浄刹にして入聖証果するを「浄土門」と名づく」(『教行信証』「化身土巻」聖典三四一頁)、「念仏成仏これ真宗」(『浄土和讃』聖典四八五頁)は大切な言葉であろう。
式は棺前勤行、葬場勤行と進む。棺の上にはしばしばお孫さんからの手紙が置かれてある。「おばあちゃん、ありがとう」。きっと、おばあちゃんも「ありがとうね」と言ってくださっているはずだ。「また会おうね」。子どもの感覚はするどいと思う。「さようなら」より圧倒的に多い。釈尊が倶会一処の世界として浄土を説かれたことは、苦からの解放を願う釈尊のおこころに沿ったものといえよう。言亡慮絶のさとりが難解な内容として説かれたら、苦しみの上にさらに苦しみが上塗りされることとなろう。釈尊の巧みな手立て(善巧方便)によって、「法性法身に由って方便法身を生ず」(『浄土論註』、『教行信証』「証巻」所引、聖典二九〇頁)という、真実のはたらきが私たちに届けられているのである。「ほとけさまの世界に、ほとけさまとしてお生まれになった」、この言葉は説明なしで、ご門徒(ご遺族)と共有できる。
自分と近しい人がほとけさまとなって目の前にいる。そんな葬儀の場は、ご遺族が「自分も同じように仏に成ることができるだろうか」、「仏に成るとはいったいどういうことなのだろうか」という問いを持つ大きな機縁となる。普段なら、目覚め、苦からの解放、自利利他円満といわれても、欲望のなかにある自分とは関係ないと思うかもしれない。しかし、いまは特別である。この問いが生じたとき、日々の生活が仏道となって、念仏成仏の歩みがはじまる。そのお手伝いをするのは僧侶の役目のひとつだろう。
「ご導師さまご退席です」。アナウンスの声で立ち上がり、ご本尊に一礼し、控え室に戻る。「うまくお勤めができただろうか」、「失礼はなかっただろうか」、お茶をいただきながら、そうつぶやくのである。
(『ともしび』2022年6月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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