胸に残されたもの

著者:藤井眞翔(九州教区西光寺)


今年もお盆をむかえる。歳をかさねるごとにお別れする人が多くなってきている。悲しさや寂しさや悔しさが入りまじった、ふくざつな気持ちを抱えながら一年がたってしまった。

お別れをしたつもりが、ふと、まだどこかにいるのではないかと思ってしまうことがある。「もういないのか…」という気持ちがかえってその人を憶(おも)わせているのか、いないと思えばこそ、いよいよ亡き人への憶いがつよくなってくる。「恩愛はなはだ断ちがたく」と、近しい人への情愛はたやすく切れないものと教えられてはいたが、この胸にあるやり場のない気持ちに戸惑ってしまう。

金子大榮氏が、あるお話のなかでこのようなことを言われている。

死んでいく人は、なにか滅びざるものを残していく。親が死んでいくときには滅びないものを子供の胸へ残していく。そういうことがある。そういうところに亡き人を拝むというこころがあるのでありまして、みな置いていったものは不滅なるものである。

(『大無量寿経総説』春秋社)

亡き人は私の胸に<滅びざるもの>を残していく。どうしても胸から消えないものを置いていくのだという。この<滅びざるもの>は無形の形見として、私の生涯のなかで活き続けていくものなのだろう。思い出も面影も、言葉にできない悲しみも、亡き人へ懐くものは形を持たない。しかし、それらは私を仏前にみちびき、手を合わさせる。胸に残されたものは合掌という形にかわっていく。

高校二年生の五月、認知症の祖母は亡くなった。祖母は認知症になってから自分でできることが一つずつ減っていき、亡くなる数年前は言葉すらも発することができなくなっていた。さいごはその身のすべてを母と叔母にゆだねて、声なく静かにその時をむかえた。

祖母のことで後悔していることがある。日常的に母と叔母がする介護の手伝いをしていたが、さいごのさいごにその場から逃げてしまったことである。亡くなる前に、下血した祖母に対してガーゼなどで応急処置をしなくてはいけなくなった。逃げたのは、そのときのことだ。「祖父のときは何もできなかったから、せめて祖母のときは…」と口にしていたが、それも逃げたことで嘘になってしまった。

親鸞聖人が「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり」と聞きとった善導大師の言葉がある。外に良い姿をするな、内にはうそいつわりを懐いているのだから、と。この言葉にすくわれた。介護を手伝っている自分は「誠実でなければならない」という意識が、逃げた自分を許さなかった。しかし、この言葉がその意識から解放し、自分の姿を照らし出してくれた。

記憶の引き出しが上手くいかなくなり、さいごは寝たきりになった祖母との生活や死をとおして、人が「死ぬ」とはどういうことなのか、また死ななければならない身を「生きる」とはどういうことなのか。そういう答えてみようのない問いを、祖母はこの胸に置いていった。十数年をへた今、それらの<滅びざるもの>は、たびたび私を立ち止まらせ問いかけてくる。

亡き人へ懐くさまざまな気持ちを断つことはできない。断ちがたいから、今年のお盆も私は胸に残されたものを抱えて仏の前にいき、手を合わせる。亡き人への憶いは合掌となり、その合掌はやがて私に南無阿弥陀仏を口にさせてくれる。


東本願寺出版発行『お盆』(2019年版)より

『お盆』は親鸞聖人の教えから、私たちにとってお盆をお迎えする意味をあらためて考えていく小冊子です。本文中の役職等は発行時のまま掲載しています。

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