愚かな身のままで救われる

著者:本多弘之(東京教区本龍寺住職・親鸞仏教センター所長)


本願名号ということの意味について、親鸞聖人は人間の行為で何かの結果が得られるという、「行為」と考えてきた歴史を破って、煩悩のこころを生きていて、闇の人生を生きている衆生に、明るみを与えたいという如来の願いがくるような方法として、名(お念仏)を与える。名に本願がはたらいて、名をとおして衆生の闇を晴らす。闇を破り願を満たす「破闇満願」は、本願が衆生の闇を破りたいという願いですから、本願成就の「浄土のはたらき」と言ってもよいのです。その「破闇満願」という意味を名にいただいていったわけです。これが非常に大事な押さえです。

名を称えていれば、死んでから浄土にいける。浄土にいけるとは、人間が行為したことを功徳として、如来の世界へいくことができる、そういうふうに浄土の教えが解釈されてきたこともありました。また、衆生というのは、迷っている今のいのちがつらい。だから、もっといい世界にいきたいということなら、何となくそれは願いとしてよく分かる。親鸞聖人が生きられた時代以前にも、そういうように浄土というものをとらえていたことはあったのだと思うのです。ところが親鸞聖人は、その浄土教の歴史の中で、名号を信ずることは、名に如来の願いがかかっているのだとおっしゃった。名の意味にであえば、その名の意味において、われわれの闇は晴らされ、どこかにいく必要はないとされたのです。

「散乱放逸も捨てられず、罪業深重も重からず」この愚かな身のままで、罪業深重の身のままで救われる。罪の身、愚かな身、助からない身のところに如来の大悲がくるのだ、浄土の功徳が名をとおして衆生にくるのだ、こういう救いを親鸞聖人は一生懸命書いておられる。

今、凡夫で駄目だから、死んだらいいところへいけますよ。そんなことはどこにも書いていないのです。だからこそ親鸞聖人の教えは革新的なのです。自分で何かをして、その功徳でどうにかなるのではないのです。如来の本願力を今ここにいただく。そのことによって人生が転換するわけです。そういう教えが親鸞聖人の教えなのです。

『親鸞聖人のお念仏』(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2018年版⑫)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2018年版)をそのまま記載しています。

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