金沢教区本泉寺 松扉 覚
昔から「便りの無いのは良い便り」といいますが、必ずしもそうではないと思い知ることがありました。私の携帯電話には、子ども会で出会った子どもたちの番号がいくつか登録されています。よく連絡があることもあれば、一度もないこともあります。それぞれ、学校生活の終了とともに連絡がこなくなることがほとんどです。寂しい気もしますが、連絡がないのは無事のしるしと安心していました。しかし、ある時、よくいっしょに遊んだ子が自死されたとの連絡が届いたのです。その子が苦しみ悩んでいた時、私の携帯電話が鳴ることはありませんでした。私は電話番号を知っているだけで、一体何に安心していたのか…、その「安心」は不確かなものであり、本当は「無関心」であったのではないかと、未だに心の整理がつきません。
不確かなものを真実だと思い安心したり、逆に精一杯生きても安心できない世界を「彼岸」(浄土)に対して「此岸」(穢土)というのでしょう。自分中心のものさしで物事を考え、そのことにしばられる世界。言い換えれば、何事も自分が中心にいないと安心満足できない世界です。では「彼岸」といわれている「浄土」とは、どのような世界なのでしょうか。天親菩薩が著された『浄土論』には「広大無辺際」、広く大きく端っこがない世界と説かれています。中心にいないと安心満足できない世界は、端っこを作り出します。その世界には、中心で生きられずに端へ追いやられる人が必ずいるのです。「みんなが中心に」という考えが、端へ人を追いやる世界を作り出します。浄土とはみんなが中心になる世界ではなく、端へ追いやられる人がいない世界なのだと思います。お彼岸は亡き人と、縁ある人と、私と、その浄土という世界で出会いたいという願いを確かめる大切な仏事として、脈々と受け繋がれてきたのではないでしょうか。
生きる苦悩を、「キャラを演じる」「素の自分が出せない」という言葉で表現してくれた子たちがいます。社会の中で安心するためには、そうせざるを得ない。しかし、悲しい知らせを聞き、自らが生きるという苦しみに鈍感だったと痛感しました。そんな精一杯生き、苦しんでいる人に、言葉だけで「いのちは大切です」と伝えても、私自身が本当にそのことに頷いていなければ届くはずもありません。今、生まれたこと、生きることの苦しみを共に考え、感じ合える場が必要なのではないでしょうか。気づいてほしい、聞いてほしいという声なき声に、真摯に耳を傾けなければいけない。時間をかけて、丁寧に。
東本願寺出版発行『お彼岸』(2019年秋版)より
『お彼岸』は、毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『お彼岸』(2019年秋版)所収の随想の一つをそのまま記載しています。