信仰と財施の問題
(武田 未来雄 教学研究所所員)
そもそも宗教は、伝統宗教・新興宗教の如何を問わず、苦の解決を目的とすることは言うまでもない。しかしながら、その宗教団体が利得の欲心から、人びとの苦しみや恐れをかえって増大させてしまう場合がある。
このことを考えるにあたって、『歎異抄』第十八条において歎異されている、人間における根深い課題は注目に値する。
ここでは、仏事に対する謝礼の多少によって、大きい仏になったり、小さい仏になったりすると主張する異義が述べられている。この異義に対して、著者の唯円は厳しく「言語道断で、根拠のないいわれである」と言い、さらに仏身に大小を定めること、経典にこじつけて主張していることを指摘し、厳しく批判しつつも、丁寧な解説を述べる。そして、どれだけ貴重な宝を仏前に投げ、師匠に捧げようとも、信心が欠けていれば何にもならない。たとえ一銭も施さなくても、本願他力をたのみ、信心が深ければ、それこそ、本願の思し召しにかなうと、真宗の正しい信心のあり方を表した。
そして唯円は、この異義の本質を、仏法にことをよせて、世間の財物を貪ろうという欲心から、同朋を言いおどしているのではないかと押さえる(以上、『真宗聖典』六三八~九頁参照)。
この問題について、廣瀬杲師は、「人間を安心さすはずの信心が、人間を不安にすることになるのです。(中略)ほんとうに人間を不安の状態から救うような顔をしながら、実は逆に人間を不安の状態にさせ、さらにその不安の状態に置いたままにしておくことが、いちばん宗教集団の大事な仕事になっているのだということなのです。それを指摘しているのが第十八条なのです」(『歎異抄講話』四、法藏館一九九四年、一七四~七頁)と指摘する。人間の自己関心は、俗心によって、安心を与える教えを利用し、逆に他者を不安に落とし入れてしまう事態をも起こすのである。
唯円は、断定ではなく、「いいおどさるるにや」と疑問で終えている。ここに、異義者を突きはなすのではなく、共に考えていこうとする歎異の精神が表れていると言えよう。
どうしても俗心によって、自分の利益のために動いてしまう自分がいるのである。この問題と真向かいになり、自己の悲歎を通してこそ、教えの本来の意義が回復される。信仰への信頼回復は、不安を抱えるものとして、共に歩もうとすることが大切なのであろう。こうした聞法の場を維持していきたいという願いから出ているのが財施ではないだろうか。
(『真宗』2022年10月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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