きくというは信心をあらわす御のりなり

法語の出典:『一念多念文意』『真宗聖典』534頁

本文著者:平原晃宗(大谷中・高等学校宗務科講師・京都教区正蓮寺住職)


以前、ある研修会で「真宗における救いを、一言でわかりやすく表現できるのか」という課題について話し合うことがありました。

それに対し、
  「自分の居場所がはっきりする」
  「自分が自分であったことに感謝できるようになる」
  「本当に生きることができる」
など、さまざまな意見が出てきました。意見がある程度出た後に、担当の先生が
 「真宗の救いとは聞くことができることです」
と、おっしゃいました。


私は、その言葉を聞いて「確かに、親鸞聖人は聞くことを大切にされてきたが、聞く行為そのものは毎日なにげなくやっていることなので、聞くことが救いになるとは、どういうことなのだろうか?」という疑問を持ちました。


あらためて自分自身の聞く行為を振り返ると、会話をしている時に、相手の話を聞くことよりも、自分が次に話す内容ばかりを考え、会話がちぐはぐになり、気まずくなったことが思い出されます。


家族や友人が話していることは聞いているものの、相手の話す内容をしっかり理解しようとしているのではなく、聞いているふりをしているだけで、自分の都合に合うことだけを聞きかじっているだけなのです。相手の話す内容に自分の基準で善し悪しをつけ、都合の悪い内容は切り捨て、一方的に自分の都合の良い内容を話すことで、自己満足しているだけではないのかと感じてしまいます。そのようなことから、自分の中で聞くという行為そのものがしっかりできているのかが問われてきました。


さて、「きくというは 信心をあらわす 御のりなり」と法語にあるように、「聞」ということが信心をあらわすとは、どういうことなのでしょうか。信心ということが、真実に目覚めることを意味するのであれば、「聞」ということは自分の都合に合うことだけを聞いて自我を満足させることではなく、教えを聞くことによって、自分の真実の姿が明らかになり、身の事実に目覚めることをいうのでしょう。つまり、自我で聞いていくのではなく、「聞」により自我が根底から問われ、自我に執着しているこの身が明らかになることを、「聞即信」として教示されているように思えます。


親鸞聖人は二十九歳の時に、吉水にいた法然上人から本願念仏の教えを聞き、信心を得る身となられました。それは本願念仏の教えが自分の考えに合ったために、納得して信心を得たということではなく、教えとの出遇いが阿弥陀仏との出遇いとなり、自らが煩悩具足の凡夫であることに目覚め、信心を得られたのだと言えます。そこには、吉水で民衆の苦しみの叫びを聞いた法然上人の姿と、民衆が申す念仏の声をとおして阿弥陀仏からの声をこの身に聞き、救われていった親鸞聖人のお姿が見えてきます。


「聞」ということは、本願念仏の教えを教養話として聞いて、知識を蓄えていくことではなく、何よりも自我に執着するわが身が明らかになることにより、成立すると言えるでしょう。



東本願寺出版発行『今日のことば』(2019年版【2月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2019年版)発行時のまま掲載しています。

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