教化の願い
(藤原 智 教学研究所助手)
寺川俊昭が伝える曽我量深の最晩年、病床での言葉である。この言葉を聞いた時は、とても感銘深く、その通りだなと思ったことである。そして私自身が清沢満之について何か書くことがあった際には、その教化/教育の願いというものを中心に考えたものであった。
ただ、そうして清沢満之について書くことはできる。しかし結局それはあくまで清沢の紹介であって、言ってみれば他人ごとだ。省みて、自分自身にそうした願いがあるか。人に関わり、そして伝えたいこと、一緒に考えていきたいこと、そういうものが自分にあるか。突き詰めてそう問うてみたら、出てこない、語る言葉がない。そこで身動きが取れなくなってしまった。
振り返ってみると、いろんなお話を聞いたというわけではないけれど、それでも情熱的に語ってくださっていた先生方の顔が浮かぶ。もう故人の方もいる。そうした方々の語りかけがあるから、今の自分がいる。心の底に沸々としたものがある。けれども、それが自分の血肉になっていない。結局は聞きっぱなしであったのだろう。
先日、ある研修会で講師の方が言っておられた。「門徒さんが、何かの問題を抱えているように見えても、見て見ぬふりをして、あたりさわりのない話をしているのではないですか。そんな人を誰が信頼しますか」と。具体的な問題を避けている人間に、小手先の知識はあろうとも、人に語るべき言葉があるはずもない。ぐうの音も出なかった。
これまで無責任に、軽薄に生きてきたこと、それはどこかで分かってはいたことだけれど、見なかったことにしてきた。しかし、自分自身のなかで覆い隠すことは出来ないほど露わとなってきてしまった。今さら何を言っているんだ。まさしくそう思う。
もちろん、文章を書いたり、お話ししたりする機会をいただくことはあり、そこで伝わってほしい、考えてほしい、ということはある。そのために、自分なりにやっているつもりだ。しかし、先生方のあの情熱をもった語りかけ、あるいは問題意識をもったお話を想起した時、その情熱が、自信が、自分には決定的に欠けていると感じてしまった。しかし、その方々とて、最初から情熱や自信があったわけではないだろう。それでも一生懸命やってきたからこその姿なのだ。それに比べ、自分は委縮し、初めからできない言い訳を探してばかりいる。その精神性が情けない。
「自信教人信」(「自ら信じ人を教えて信ぜしむ」、聖典二四七頁)という言葉に代表される教化の願い、その感化力の大小はあるにせよ、有名無名の多くの人々の願いがあり、教えの言葉が今の自分に届いている。にもかかわらず、その願いに応答しようとしない私自身なのである。
(『ともしび』2022年12月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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