はじめに

 真宗大谷派教学研究所では、北海道開拓の象徴的存在として知られる東本願寺第二十二代(げん)(にょ)上人(大谷(こう)(えい)、一八五二~一九二三、在職一八八九~一九〇八)の百回忌(二〇二二年)を契機として、「現如上人と北海道の開拓・開教」という研究課題に取り組んできた。その際、現如上人が北海道へ赴いた一八七〇(明治三)年に至るまでの真宗史を確かめること、ならびに先住民族であるアイヌに対する侵略・差別をともなった歴史を有することも、同時に課題となる(拙稿「現如上人と北海道の開拓・開教」本誌二〇二二年二月号)。

 そこで、①中世以来の北海道真宗史、②近代初頭の北海道開拓・開教、③アイヌ民族差別問題について、連関させながら、フィールドワークを企画した。①~③はそれぞれに、重厚な研究史を有し、①②の歴史研究成果は早くから編まれてきた。その後、③へ言及すべきことが提唱されるようになり、研究が蓄積されていった。ただしこれまでの研究では、国家史・教団史の一環として扱われる傾向にあり、地域における具体的な姿が見えにくいように感じる。そこで地域の視点から北海道真宗史に取り組もうと、「北海道地域真宗史」をテーマに、本年(二〇二二年)七月二十一日から二十五日にかけて、筆者は難波教行研究員・三池大地助手とともに、フィールドワークを実施した。

一、北海道真宗史のはじまり――函館・松前――

 初日の七月二十一日、函館に降り立った。北海道における真宗の歴史は、道南地域に伝来したことに始まり、また現如上人も函館に上陸していることから、フィールドワークの起点とした。

 まず真宗大谷派の函館別院(函館市元町)を訪問した。一八五八(安政五)年、現存する道内最古の真宗寺院である松前專念寺(北海道教区第一組、松前郡松前町)の掛所・浄玄寺を、本願寺掛所の函館御坊浄玄寺と改称して、本願寺の直轄とした寺院である。度重なる火災に見舞われたことから、一九一五(大正四)年に日本最初の鉄筋コンクリート寺院として建立されたのが、現存する本堂になる。

 その後、函館別院船見支院(函館市船見町)ならびに隣接する東本願寺北海御廟を、同院列座主任の(ふく)(しま)(けい)(とく)氏に案内していただいた。なお四日目の七月二十四日には、札幌の北海御廟(札幌市中央区伏見)にも立ち寄った。同所は、生前に北海道の地に分骨して欲しいという現如上人の遺言もあって、一九三四(昭和九)年九月下旬に落成している。函館・札幌の北海御廟は、京都の大谷祖廟(京都市東山区円山町)から遠く隔たった北海道や青森県の門徒たちが納骨できる場所として大切にされてきた。

 翌日の二十二日は松前へ向かった。專念寺の(ふく)(しま)(かさね)氏に案内いただき、まず專念寺御廟を訪れた。入口の階段下にある石塔は一八一六(文化十三)年八月の寄進で、また御廟の屋根に設置されていた宝珠に刻まれた文字から、一八一八(文化十五)年五月には「骨堂」と呼ばれていたと分かる。なお『專念寺系譜』によれば、一六六八(寛文八)年六月に「寺檀惣墓」として「納骨所」が創建されたという。現存する御廟にあたろう。

 次に專念寺へ向かった。同寺の創立については、一五三三(天文二)年または一五三六(天文五)年など、諸説ある。創立した中世後期以来の歴史を伝える法宝物を拝見することができた。

 その後、專念寺の門徒・髙橋家(松前郡松前町飯浜)と、同寺の道場を淵源とする西敎寺(北海道教区第一組、松前郡松前町江良)に案内いただいた。

 髙橋家は、現如上人が一八七〇(明治三)年と、再び北海道を巡教した一八八一(明治十四)年の八月二日に立ち寄った髙橋幸吉宅にあたるという(高橋寿太郎『北海道東本願寺由来』北海道東本願寺由来編纂事務所、一九一二年、八一頁)。お内仏の脇掛けは現如上人筆の九字名号・十字名号であり、立ち寄った際に書かれた可能性も高いだろう。

 続いて西敎寺を訪問した。專念寺に所属する「()()道場」が、一八七八(明治十一)年になってから、「西敎寺」として寺院化した。ただしこの「西敎寺」という寺号はもともと專念寺の寺中寺院にあった。明治初頭に江良道場が寺院化するにあたり、廃寺となって專念寺に併合されていた西敎寺の寺籍と法宝物が移されたのである。そのため江良の西敎寺へ、專念寺の寺中寺院に伝来した法宝物・史料が残されることになった。

 一六五八(明暦四)年五月十日付の寺号免状、一六七七(延宝五)年二月十五日付の木仏免状があり、寺号と木仏が備わることで寺院化を遂げたと言える。そして、その後に授与された法宝物類から、寺院として整備されていった経過を追うことができる。

 以上から、松前藩が和人の定住地と規定した道南地域の松前地において、近世前期に寺院化した寺院の存在が認められる。これは本州以南で寺院化が進んだ時期と共通する。

二、北海道の新道切開―本願寺道路―

 三日目にあたる七月二十三日は、函館から(前日のうちに松前町から函館市へ移動)札幌まで、「本願寺道路」の経路を車で移動した【地図】。

 函館から北上し、まず景雲寺(北海道教区第一組、亀田郡七飯町大沼町)に立ち寄り、「東本願寺開道移民記念碑」【写真1】を確認した。碑文は光瑩(現如上人)筆であり、一九一九(大正八)年九月に建立されたものである。現在確認している本願寺道路に関する記念碑としては最も古く、貴重である。

【写真1】「東本願寺開道移民記念碑」
           (景雲寺境内)

 「東本願寺街道起点」を示す石碑が、伊達市長和町にある。伊達郷土史研究会によって一九九一(平成三)年十一月に建立されている。

 そこから北上し、国道二三〇号線を介して中山峠(北海道喜茂別町川上)へ向かった。中山峠の頂上にある道の駅「望羊中山」のそばに、一九六七(昭和四十二)年十月八日に建設された現如上人像がある。「北門開拓」に尽力した人物として遺徳を顕彰するために建てられたものである。

 そして札幌へ向けてさらに移動した。その途中には、本願寺道路を通行する旅人の宿泊・休憩のため、開拓使によって一八七二(明治五)年一月に建てられた(みす)(まい)通行屋の建物(旧黒岩家住宅、札幌市南区簾舞一条)がある。当初の場所から少し移転して現存しており、資料館として公開されている。

 そこからほど近い札幌市立簾舞中学校(札幌市南区簾舞)付近に、本願寺街道跡が残されていると、事前に情報を得ていた。しかしなかなか見つけられず、近所の方にお聞きして、ようやくたどり着くことができた。当時の道の様子を知ることができる貴重な史跡である。

 そしてようやく「本願寺道路終点」碑(札幌市豊平区平岸二条)に到達した。これは一九八〇(昭和五十五)年九月に、平岸開基百拾年記念会が建立した石碑である。

 このように本願寺道路をたどることは、その歴史的検証の歩みを確かめることにもつながった。それぞれの地元で検証が進められたようで、本願寺道路が、地域の歴史を見直す上で、重要視されてきたと言えよう。

三、札幌別院創建地の地域性

 七月二十四日の午前中は、札幌別院(札幌市中央区南七条西)を訪問した。同院では七月二十二日から二十四日にかけて、札幌別院創立一五〇年記念法要・現如上人一〇〇回忌法要が勤められており、二十四日午前十時半からの結願日中に参拝した。「札幌別院創立のあゆみ」と題するパネル展や現如上人ゆかりの品が展示されるなど、その歴史を改めて確かめる機会ともなっていた。

 午後は、北海道大学の周辺や構内を、谷本晃久氏(北海道大学大学院文学研究院教授)に案内いただいた。昨年(二〇二一年十二月二日)、オンラインで「本願寺の北海道開教の歴史について」と題して講義くださっており(拙稿「現如上人と北海道の開拓・開教」本誌二〇二二年二月号)、今回は現地でレクチャーを受けることができた。北海道大学の周辺地域・構内は、近代初頭までアイヌ民族のコタン(集落)があった場所であり、札幌別院の創立した場所は、アイヌの生活の場であった川筋の上流にあたることを教えていただいた。そして大学構内には、(さつ)(もん)文化前期(八世紀)のカマドの遺跡があった。つまり、その頃から人々が暮らしていた場所であることを知ることができた。北海道で「開拓」という名のもとに進められた植民地化によって、一八七七(明治十)年頃には、この地にあったコタンからアイヌは移住を余儀なくされたと考えられている。

 アイヌ文化については、前日の七月二十三日に、本願寺道路の道中にあるアイヌ文化交流センター(サッポロピリカコタン、札幌市南区小金湯)で、(ゆう)()(こう)()氏(アイヌアートプロジェクト代表)から多岐にわたりお教えいただいていた。その中でも、アイヌが用いる漆器類に関する説明が印象深かった。湿度の低い北海道は、漆器製作に適さないこともあり、アイヌが漆器を製作することはなかった。和人との交易や労働の対価として入手した漆器類は、チセ(アイヌの伝統的家屋)のうち、室内奥の一段床が高くなっているイヨイキリ(宝物置場)に置かれた【写真2】。自分たちで製作できないものに価値を見出し、特別なちからが宿っていると考えられていたという。和人とは異なる用途とする場合もあり、和人の文化をアイヌの文化に取り入れた象徴的なものと感じた。

【写真2】チセ(アイヌの伝統的家屋)のイヨイキㇼ(宝物置場)
(アイヌ文化交流センター)

 アイヌと和人は交易や交流をすることで、文化を育んできた面がある一方、和人が先住民族であるアイヌの土地を侵略し、差別してきた歴史があることも事実である。

 前述した谷本氏の説明を受けて、東本願寺周辺地域の歴史との共通性を感じた。東本願寺は、一六〇二(慶長七)年に江戸幕府初代将軍となる徳川家康から烏丸六条の寺地を寄進されたことに始まる。さらに一六四一(寛永十八)年、三代将軍・徳川家光から、現在、(しょう)(せい)(えん)枳殻(きこく)(てい))のある土地も寄進された。ただし、そこには被差別部落の北小路村があり、翌一六四二(寛永十九)年、同村は五条河原へ移転を余儀なくされている。これらは京都の都市開発とも連動していた(拙稿「近世における東本願寺周辺地域の被差別部落と真宗」『教化研究』第一六八号、真宗大谷派宗務所、二〇二二年)。

 北海道開拓に関する諸課題は、北海道特有の問題にとどまらないのではなかろうか。社会構造の差異に留意しつつも、様々な時代・地域で、同様の問題をはらむ可能性があると感じている。開発・開拓の名の下に、平穏な日常の暮らしを奪われた人々がいたことに目を向けなければならない。

 谷本氏に、広大で自然にあふれた北海道大学の構内を案内していただき、アイヌ・先住民研究センターにたどり着いた。そこで、石原真衣氏(北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授)と懇談する機会を持つことができた。同氏は、母方が先住民アイヌ、父方が(こと)()(とん)(でん)(へい)という開拓者側の系譜であり、そのマルチレイシャル(複数の人種の血を引く)と自称されている。それに伴う語り難い「痛み」を『〈沈黙〉の自伝的民族誌(オートエスノグラフィー)──サイレント・アイヌの痛みと救済の物語』(北海道大学出版会、二〇二〇年)で表現されており、ぜひお話をお聞きしたいと思い、実現することができた。当日は、様々な意見交換をすることができ、今後も課題共有する機会を重ねることを約束した。

おわりに

 これまで現如上人が北海道へ赴いた近代初頭に至るまでの歴史は、北海道真宗史の前史としてとらえられてきた傾向にあるように思う。今回のフィールドワークを通して、少なくとも道南地域には、中世後期に始まる松前專念寺を端緒として、近世前期に寺院化した寺院や納骨所が存在したことを確かめた。そして近世後期に本願寺掛所が函館に置かれるなど、前近代の道南地域に、真宗は着実に根付いていた。

 長らく口承で文化を伝えてきたアイヌについて、その足跡を歴史的にたどろうとすれば、和人の書き残した史料を用いることになる。開拓者側の和人が書いた史料であることに留意しつつ、和人によるアイヌの認識を読み取ることはできよう。同時に、語り継がれてきたアイヌの人々の声を丁寧に聞き取りたい。オーラルヒストリー(口述による歴史、またその記録)は、和人側の史料を読み解く際にも、大いに反映されることになるであろう。

 近代初頭に東本願寺は、北海道開拓について下問した明治政府の方針を早くに察知していたためか、北海道開拓を出願し、新たに道を切り開くことに尽力した。それは単に、国家政策へ従っただけではなく、道場・寺院を各地に設け、浄土真宗の教えを北海道の地に浸透させたいという思いからではなかろうか。

 近代初頭の北海道開拓・開教は、現如上人が先頭に立って推し進めた歴史として語られてきた。ただしその背後には、数多くの僧侶・門徒の存在があった。移民が奨励されたことを受けて北海道へ移住した真宗門徒は、真宗の教えを生活の支えとした。そのような門徒とともに、北海道へ移転した寺院や、教えを伝えるために移住した僧侶もいた。

 その後、本州から数多くの僧侶が北海道へ布教に赴いた歴史がある。筆者の祖父・(まつ)(かね)(けん)(ゆう)(一九一〇~八五)もその一人であった。寺や家族との生活を守るため、そして教えを伝えたいと、祖父は北海道で布教した(拙稿「真宗人物伝〈二〇〉松金憲雄」真宗教化センターしんらん交流館ホームページ)。今回、フィールドワークを行うにあたり、祖父は北海道の人々とどのような交流をしたのであろうか、と思いを巡らせた。真宗僧侶による北海道での布教の実態について、布教がはらむ問題性も加味しながら尋ねていきたい。

 北海道における真宗の歴史を、遠い地の過去の出来事として学ぶことに終始するのではなく、自身につながる、自己の背景をたどる歴史として向き合っていきたい。

(教学研究所研究員・松金直美)

([教研だより(196)]『真宗』2022年11月号より)