常に今を生きている私

著者:田畑正久(大分県・佐藤第二病院院長)


私たちは、今、生きていて、そして未来のどこかで死ぬと考えてしまいがちです。しかし、仏教では、私たちは、一刹那ごとに、生死を繰り返していると教えられます。一刹那、つまり一瞬一瞬、一日一日、朝目が覚めてその日を初体験する私が誕生して、その初体験した私はその夜死んでいく。生は死と常に隣り合わせにあり、縁あって生かされているのが私のいのちの事実なのです。

私の身体を構成している約六十兆個の細胞は、身体を維持するために二百分の一の細胞を毎日自ら壊し、そして同じ数の細胞を再合成することで、均衡を保っています。たえずその繰り返しをしているということは、自転車操業という言葉があるように、自転車を休みなくこぎ続けるようにして私のいのちは維持されているのです。停まれば自転車は倒れてしまします。細胞の一つをとって考えてみても、私の思いや努力を超えて、多くのおかげで生かされてきたのです。


そういう一瞬一瞬、一日一日の足し算が、結果として、一週間になり、一カ月になり、一年、十年となっていくのです。そういう気づきが生きることを輝かせていくのではないでしょうか。


しかし、フランスの哲学者であるパスカルが「明日こそ幸せになるぞ、来年こそもうちょっとよくなるぞと言って、いつも明日のための準備が今日であると生きている人たちは、明日こそ幸せになるぞと死ぬまで幸せになる準備ばかりで終わる」(取意)と『パンセ』という書物に書いているように、私たちは、明日の準備ばかりで、何か空しく時を過ごしてしまっているのではないでしょうか。


仏教は、この人生を空しく過ごしてしまうことを問題にし、一瞬一瞬、一日一日を大切に生きよと呼びかけるのです。それは、現実を受け止めて生きていくということからはじまるのです。私の身の現実を引き受け念仏して精一杯生ききる時、おまかせするという生き方を賜るのです。生かされている間は精一杯、自分の役割を使命としてはたしていこうという意欲をいただくのでしょう。


『病に悩むあなたへ』(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2019年版①)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2019年版)をそのまま記載しています。

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