安穏から問われる平和
(新野 和暢 教学研究所嘱託研究員)

ロシアによるウクライナ侵攻が象徴しているように、戦争や平和に関する問題を考えざるをえない日々が続いています。仏教とは何かについて平和の視点から考える中で、宮城泰年(本山修験宗聖護院門跡門主)が親鸞の「安穏」(聖典五六九頁)という言葉に言及していたことを知りました。
 

平和というのは、単にけんかをしない、人を殺さないというだけではない。私たちのいう平和とは、親鸞の「世のなか、安穏なれ」という言葉です。争いがなく、みんなが穏やかに生きていける世の中、すべての中での安穏こそ真実の平和だと思います。(『女性のひろば』日本共産党中央委員会、二〇一五年八月)

 

親鸞の『御消息集(広本)』第七通を用いた指摘は、平和を求めながらも、正義を主張したり、軍備拡張を求め迷う姿に一石を投じてくださいました。
 
このお手紙は数ある御消息のうち、「特に現実に関わって念仏者の生き方に言及している」(尾畑文正著『親鸞聖人の手紙から』東本願寺出版部、二〇一一年、一八頁)点に特徴があります。
 

世にくせごとのおこりそうらいしかば、それにつけても、念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころいれて、もうしあわせたまうべしとぞおぼえそうろう。(聖典五六八頁)

 

とあるように、好ましくない事に遭っても、念仏申すという仏教への向き合い方が説かれています。それは「承元の法難」で流罪となった親鸞が、いよいよ念仏を申したことからも明らかです。
 
しかし、このお手紙は部分的に切り取られ、戦争協力の根拠に利用されてきました。例えば、十五年戦争の始まりを告げる「満洲事変」を受けた諭達(一九三一年十月三十日)があります。ここで、『大経』の「国豊民安 兵戈無用」(聖典七八頁)を引いて、仏教が非戦の立場であることを確認しながらも、それを貫き通さず国家への協力を呼びかけて暴力を肯定していきました。
 

我カ國民たるモノ宜シク小異ヲ棄テヽ大同ニ従ヒ擧國一致斯ノ國難に當リ以テ維新ノ宏謨ヲ恢弘セサル可ラス(『真宗』一九三一年十一月)

 

と、大陸に侵攻した国家の方針を会得するよう指示したのです。仏法との間にある立場の隔たりを小異と斥け、権力者におもねる根拠に据えたこの「安穏」は、「朝家の御ため国民のため」(聖典五六九頁)というくだりの後に続いているため、国家への忠誠心を伴う念仏と解釈されたのです。
 
戦後、大谷派は戦争責任を表明し、そうした考え方は公式には放棄されました。しかし、過去の事実検証は未完成です。特に「戦争教学」の論理に対する直接的な問題提起は、教学者批判に繫がるきらいがあるため避けられてきました。ですが、タブー視しているのであれば、親鸞の「安穏」に流れる普遍性や社会との向き合い方は見えてきません。「世のいのりにこころいれて」とは、社会に寄り添う中に正義を求めようとするのではなく、戦争する世であればこそ、いよいよみ教えに私が問われていくものではないでしょうか。

(『ともしび』2023年2月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)

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