真宗とハンセン病―下―

山陽教区光明寺前住職 玉光 順正

  

 真宗とハンセン病というテーマでどうしても触れなければならない人の一人が、「ハンセン懇」立ち上げの時に記念講演をお願いし、その後も様々なご指導をいただいた、大谷藤郎さんである。大谷さんは、お母さんの里が愛知県あま市の甚目寺の圓周寺、つまり小笠原登さんの寺の近くということもあって、大谷さんが京都大学に入学された時に、お母さんに「小笠原登という先生が居られるから訪ねて行きなさい」と言われて訪ねたのが始まりで、その後、小笠原登先生の「皮膚科特別研究室」でボランティアとして関わり始められた。そのことがきっかけとなって、その後の大谷さんが誕生したともいえる。

 大谷さんは、1972(昭和47)年に国立療養所課長に就任してから1983(昭和58)年に医務局長として退官されるまで、厚生省のハンセン病行政の責任のある立場で、全国の療養所の様々な改善を進めていかれた方である。そして、退官後は「らい予防法は日本国憲法に違反するものである」と、その廃止運動の先頭にも立たれた。

「裁判に出るときは、打ち合わせをしてわかりあった形で証言台に立つのが通常ですが、私は両方の側に打ち合わせをすることをお断りしました。なぜならば、対立した立場の両側に立たされたわけで、それを使い分けるというのは一人の人間として難しいからです。その代わり、私は両者に向かって、「どんな質問をしていただいても結構です。自分が覚えている真実のすべてを正直に申し上げます。何を質問されても構わない」と申しまして、裁判の証言台に立ちました。」(大谷藤郎『医の倫理と人権』163頁)

 このような裁判で、原告と被告両者から証言を求められるということもあまりないだろうが、まさにその裁判を「ひとり」になって受けとめられた、そのことによってこの裁判の方向が決定されたと言ってもいいのではないだろうか。

 このことは、私が「親鸞・一人になることのできる宗教」等ということを考え始めるきっかけにもなった。「一人になる」とは、ぶれないという思想を生きることであろう。親鸞はそのことを自身の流罪を通して「非僧非俗」と表現したのであり、まさに「非(ぶれない)の思想」が大谷さんを通して甦ったということでもあろう。

 ところで、2023年12月12日、久しぶりに長島愛生園の真宗同朋会に参加した。もう前から聞いていたことでもあるし、体験していたことでもあるが、ハンセン病療養所の現実には厳しいものがある。愛生園でも、在園者は今では百数名で、平均年齢も80代も後半、当然体調のすぐれない方も多い。その上、3年越しのコロナ現象で、真宗同朋会の集まりも鈴木幹雄会長ただ一人、というのが当たり前になってしまっている。在園者の減少等の影響はコロナ現象とも絡んで、全国の他の療養所でも真宗門徒の会そのものも無くなったということも聞くようになってきた。

 このような状況は全て、ある意味では日本という国の国策がもたらしたことでもある。それらのことが意味するのは、私たち自身も、その国策の是非を問うことなく従順に従っていたということである。前回述べたように、大谷派でも「大谷派光明会」が結成され、いわば当然のごとく国策を助成していたのであって、そこには親鸞の思想が働いていたとは考えられないということだ。

 さて、そんな中で今、私たちはどのように親鸞の思想を生きようとしているのだろうか。ここで曽我量深先生の言葉を紹介したい。

「聖人が、往相・還相の廻向世界をはじめて知って驚かれたのは、流罪の時からである。還相の世界に同朋あり、これ浄土真宗の僧宝である。往相の世界はどこまでもただ個人。」(『曽我量深説教隋聞記』1/42頁)

「親鸞教学は、仏教社会学を意味して──、世界中の人を驚かす時がくるにちがいない。これは還相社会学である。そんな学問が完成されるのは必ずしも遠いことではなかろう。」(『曽我量深説教隋聞記』1/43頁)

 これは、敗戦後占領軍により、教職不適格ということで曽我先生が大谷大学を追放され、各地を遊説されていた時の1949(昭和24)年3月の藤代聰麿さんの隋聞記である。隋聞記だからかどうかしれないが、曽我先生の言葉にもかかわらず、あまり聞くことがないように思う。実は、私自身の「浄土の真宗」親鸞理解には、この言葉がとても大切な意味をもっている。勿論この言葉だけではないが、真宗大谷派と、いわゆる既成仏教各宗派等との差異は大切なことではないだろうか。清沢満之を生み出し、同朋会運動を展開できたのもこれらのことと深い関係があるのではないか。

 前回、私が愛生園を訪れ始めた頃のことを書いたが、その頃の愛生園真宗同朋会は毎回20人から30人、時にはもっと多くの人たちが集まっておられた。そこへ法話に行かれるのは講師が1人、そして付き添いで1、2名という形で同朋の会が持たれていた。慰問布教という言葉があったように、ときには多くの人たちの参加もあったようだが、ある意味では、一方通行のような形であった。それでも大事な交流の場であったことも確かである。しかし、慰問という言葉が表現しているのは、同朋会と名付けられていても、そこには慰問する側とされる側があったということである。私自身の中にも、慰問というような意識はなかったとしても、何か特別なところへ来ているという感覚が全くないわけではなかった。それが時間と共に、曽我先生の「還相の世界に同朋あり」という関係が開かれてきた。そのことを表現してくださったのが、前回の最後の伊奈教勝さんの言葉である。

「世を捨てた私、かかわりのない外、それが実はそうでなくて、私という人間がここにいるということは、私だけの人間でなくて、私にかかわりのある多くの人々と関係のある私であるということ」(『ハンセン病・隔絶四十年─人間解放へのメッセージ─』伊奈教勝)

  いま、私たちに問われているのは、曽我先生が「還相社会学」と言いあてられた、親鸞が「浄土(の)真宗」と言われたことの意味ではないだろうか。「浄らかな国土」を願い、「真を宗と」して生きるとはどういうことなのか。「浄土(の)真宗」は、単なる一宗派の名前ではない。そのことにこだわり続けたい。

  

真宗大谷派宗務所発行『真宗』2023年2月号より