われらは善人にもあらず 賢人にもあらずするなり

法語の出典:『唯信鈔文意』『真宗聖典』557頁

本文著者:稲岡智子(大垣教区了圓寺衆徒)


この言葉は「不得外現 賢善精進之相」という善導大師の言葉を親鸞聖人がいただく中でのものですが、最近、いかに私が賢善精進の相をよそおっているかと気づかされたことがあります。


先日、本山の晨朝法話を聴聞していた時のことです。ご法話の中に「入堂する際や、ご本尊の正面を通る際に頭礼(軽く頭をさげること)をするのはなぜか」という話がありました。お話をされた方は、「それは、阿弥陀さまや宗祖が待っていてくださるから、自然にさがるものなのではないか」と話しておられました。


なぜ、この話で私が「賢善精進の相」をよそおっていると気づかされたかと申しますと、私はふだん意識をして頭礼をしていたからです。幼い頃、「本堂に入る時は頭礼をしなさい」と教えられ、大学の寮でも「ご本尊のあるところに入る時は、どこでも頭礼をしなさい」と教えられ、教えられたことを守っていたら、いろんな方にほめてもらえました。


お恥ずかしい話ですが、私が頭礼をする時の心には、少なからず「ほめられたい」という邪なこころがあります。


また最近、別の法話を拝聴していた折に、『仏説観無量寿経』のお話がありました。私は、このお経の名前を聞いた時、「おっ?」と、少しいばるような知ったかぶりをしたい気持ちになりました。それは、ほんの少しですがこのお経について勉強したことがあったからです。おごったような気持ちのままお話を聞いていくと、その内容は、私がちゃんと勉強をしていなかったところについての教えを話しておられるものでした。思い返せば、真面目に研究に取り組むことができず、言い訳を重ねて、結局研究を投げ出した私です。何もいばることなどできないはずなのに、つい、知ったかぶりをして、まるで自分が賢い者かのように見せたくなってしまうのです。


親鸞聖人は、兄弟子である聖覚法印が著した『唯信鈔』を受けとめ、そのこころを『唯信鈔文意』という著作として表現する中で、善導大師の「不得外現…」の言葉を、


あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。内は、うちという。こころのうちに煩悩を具せるゆえに、虚なり、仮なり。虚は、むなしくして実ならぬなり。仮は、かりにして、真ならぬなり。……しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。

(真宗聖典五五七頁)


といただかれています。この言葉は、気づかぬ間に「自分は立派である」と勘違いし、善人ぶってしまう私自身に、忘れてはいけない私の本当の有り様を気づかせてくださいます。


口では、「善人でもない、賢人でもない」と言いますが、「善人でいたい、賢人でいたい、そう見られたい」というのが本音です。ならば、努力をして善人、賢人であろうとすべきだという考えもあります。しかし、そうであろうとすればするほど、自分のやましい心や、怠け心が見えてきます。


また、善人や賢人に見えるよう外側だけを取り繕い、それだけに満足していると、いつの間にかそんな自分自身に酔ってしまっています。自分は悪人ではない、愚かではないという思い込みは、気づかぬところで、他者を批判し、傷つけ、愚弄することにもつながりかねません。


今回紹介した親鸞聖人のこのお言葉は、このような私の性を見抜かれてのものでしょう。釈尊や親鸞聖人のお言葉は、そんな私の鏡となって、わが身を知らしめて、念仏申させんとしてくださるのだと思います。お聖教の言葉をいただいて生きていきたいと、あらためて感じます。 合掌



東本願寺出版発行『今日のことば』(2019年版【3月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2019年版)発行時のまま掲載しています。

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