真実の信心は かならず名号を具す

法語の出典:『教行信証』信巻『真宗聖典』236頁

本文著者:茨田通俊(大阪教区願光寺住職)


ずいぶんと前になりますが、ご本山で大学の先輩の法話を聞かせていただいた時のことです。お話は言葉が明確で聞きやすく、人の心をつかむとても立派な内容で、深く感じ入るものがありました。一緒に聞いていた多くの人も同様の受けとめだったようで、お話が終わると聴聞の人たちから一斉に拍手が起こりました。後でその方にお会いした時に、

「とても好いお話でしたね。聞いていた方々も一様に感動されて、お話が終わった時に思わず拍手をされていましたよ」。

と伝えました。するとその方はにわかに真顔になって、次のように応えられました。

「あれは拍手をされてはいけないんだ。本当に自分のこととして聞けた時には、お念仏が出るものなんだよ」。

当時、あまり聴聞の経験もなかった私は、その時は、なぜ拍手ではなくて念仏なのか、ということにどうにも合点がいきませんでした。そもそも念仏を称えるという行為は何を表しているのかについて、長い間得心できなかったのです。

その後、年を重ねる中で得た経験が、私にいろいろなことを教えてくれました。日常の仕事や子育て、介護等において、どんなに頑張っても思い通りにならない現実がありました。不条理な世相を嘆き、人の身勝手を非難しながらも、自分の思いから逃れられない悲しさが、身に応えることもあります。そんな時、まったく思いもかけず、念仏を口にしている私自身の姿がありました。

南無阿弥陀仏という名号は、単に口で称える念仏という意味に止まるものではありません。それは阿弥陀如来の本願そのものであり、そのはたらきである大悲を表しています。衆生を救わずにはおれない阿弥陀如来からの呼びかけであり、それが「わが名を称えよ」(=南無阿弥陀仏)という名号となって、私にはたらきかけているのです。

信心は、自分で納得して理解するようなものではなく、自分の思いを超えて届けられるものです。自分の思いが破られたところに獲られるのが真実の信心であり、その自我の闇を破るものこそが念仏です。ですから聞法の場で、人の言葉を話の巧拙で評価したり、自分にとって満足が得られるかどうかを基準に判断したりする形でわかったような気になっても、自分の思いで捉えている限り、念仏は出て来ないものです。逆にいくら念仏を称えたからといって、自分の思いを超えてはたらく願いに気づかなければ、本当の意味で信心が獲られるはずもないのです。まして自分の欲望が叶うことを願って、呪文のように念仏を称えるとすれば、それは人間の浅ましい相を示していて、とても悲しく、残念なことと言わなければなりません。

拍手が、人の思いに基づいた他者への称賛の表現に過ぎないのに対して、念仏は、救い難きこの身に限りなくはたらきかける、阿弥陀如来の本願への讃嘆とも言えるでしょう。そして、真実の信心がまさに開かれるのは、ただ阿弥陀仏の御名を称えるしかない私自身であることが明らかになった時なのです。



東本願寺出版発行『今日のことば』(2019年版【4月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2019年版)発行時のまま掲載しています。

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