「教行信証」の名が表すもの
(武田 未来雄 教学研究所所員)

多くの人に親しまれている呼び名が、本名でなかったことは、日常でも経験されることであろう。「教行信証」の名で親しまれている親鸞の主著も、実は「顕浄土真実教行証文類」という名称があるとは、どれくらい知られているのであろうか。
 
「教行信証」の名称が使われるようになったのは、親鸞没後から時代を経た室町期からと言われている。それまでは「教行証文類」や「教行証」などの略称が使われていたと言う。
 
「教行信証」の名称は、確かに略称であるが、長く親しまれ、使用されてきたのには、意味があるのではないだろうか。「教行信証」の略称について、曽我量深は次のように指摘している。
 
「教行証の三法は、従来の仏教常途の題目である。だから、浄土の教・行・証に対して聖道の教・行・証がある。また浄土の中にも、真実の教・行・証と方便の教・行・証とがある。そこで「浄土」を以て聖道に簡び、更に「真実」を以て浄土方便にえらんで、「顕浄土真実教行証文類」の題目が掲げられた。それに対して「教行信証」は行と証との間に「信」を配置することによって、新しい独自の教相を示し、特に「浄土真実」の簡別けんべつの語を冠する必要はない」(「行信の道—『教行信証』総序講読—」『曽我量深選集』第七巻一七〜八頁取意)と。
 
従来の仏道の流れで言えば、教を信じて修行し、さとりを得ていく、ということである。一方、「教行信証」は、行の後に信があることに独自性がある。行信の次第とは何であるのか。これは、伝統的に「行巻は名号の法を明かし、信巻は衆生の機の方へうけたすがたを明かす」(香月院深励「教行信証講義」『教行信証講義集成』第一巻四一七頁取意)と言われる。つまり、行信は名号の法を衆生の機へ回向する、他力回向の道理を表すのである。更に曽我は、この「教行信証」について「伝承と己証」という視点から述べる(「教行信証「信の巻」聴記」『曽我量深選集』第八巻一三〜四頁)。
 
行巻には、印度・中国・日本の次第で、七祖をはじめとする諸師の文が引用され、念仏の伝統が表されている。信巻には、問答が設けられて、本願の三心が誓われた由来が推求され、煩悩具足の凡夫を救うための本願が明かされている。
 
念仏の伝統は、自己が念仏申す背景に、念仏を伝え、称えさせようとの法のはたらきがあることを表す。また本願を明らかにすることは、煩悩具足の凡夫を救い、成仏させようとの、本願の意欲を開顕することである。正に念仏の伝統の流れの中に自己はあり、流れが起こってくる本源に、煩悩の具足するどんな自己であろうとも救おうという本願が見い出される。正にそれは、「ながれんで本源を尋ぬる」(「報恩講私記」『真宗聖典』七三九頁)との言葉が示す営みであろう。この聞思の営みによって、私たちは、自然に必ず真実のさとりを得ていく確信を得るのである。
 
「教行信証」の名は、仏道を自己の遠い所に据えるのではなく、教・行・信・証という大いなるはたらきの中に自己が在ることを表すのである。

(『ともしび』2023年3月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)


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