人間、この滑稽なるもの
(中山 善雄 教学研究所研究員)

「コップの中の嵐」という言葉がある。当事者には大ごとであったとしても、外にいる人たちには影響のないことを表す。
 
私自身の生活や、身辺に起こる問題を顧みても、「コップの中の嵐」であることが往々にある。そのような場合に問題とすべきであるのは、コップの中で提起されている事柄よりも、コップそのものである。すなわち問題提起の枠組みであり、その背後にある、何らかの動機や力関係であるのだろう。内部にいるとそれが見えなくなり、問題に対して真面目に取り組もうとするほど、枠組みに捕らわれていく。
 
コップの外側から見れば空疎であり、かつ滑稽であろう。それが私自身の偽らざる姿なのではないだろうか。浄土真宗の教説においては、人間とは如来により悲しまれている存在であるといわれる。しかし、悲しみというと、余りに高尚な感がある。むしろ、如来には滑稽な存在として映るのが人間であり、私たちは如来より微苦笑されているのではないだろうか。そして、愚かで滑稽な人間こそが、如来にとって愛すべきなのではないか。
 
無論、真剣に生きている人を嘲笑するようなことは慎むべきである。しかし私は、その真剣さや真面目さが、ともすれば大事なものを見失わせることにもなると思う。例えば近代において親鸞聖人は、苦悩する求道者として描かれてきた。そのすべてが誤りであるとは言えないが、そのように内省し苦悩するという人間像は、近代というコップの中で造られてきた傾向がある。しかつめらしい近代的人間像を笑い飛ばすような、ユーモアや滑稽さをもつ「笑う親鸞」がいてもいいのではないか。
 
私たちの生きる世間もまた、一つのコップである。そのコップに何かしら確かなものがあると思っていた。ところが、その中は空であり、容器を替えてみてもその事実は変わらない。他ならない自分が空虚だからである。そのことが言えないがために、コップ内部の嵐をかきたて、疲弊していく。
 
そして、それが言えない自らの問題としては、コップの中心で生きていきたいという自己執着と、コップが壊れて放り出されることへの恐怖心、内部の空気に追随することで、いつかは自分が中心に居座りたい野心がある。しかも、そのことは周囲にも、仏様にもばれているにもかかわらず、取り繕っている。その自分の滑稽さを哄笑こうしょうする軽やかさを、滑稽さを愛する如来のまなざしを通して感得していきたい。
 
(『真宗』2023年3月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

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