法事
(名畑 直日児 教学研究所研究員)

父が亡くなって一年が経つ今年(二〇二三年)一月、一周忌を勤めた。一年という時間は、父の死去に伴う手続き等に追われたためか、短く思えた。「あれから一年が経つのか」という感慨とともに、大切な人を失った悲しみを感じることがあまりなかったことにも気がついた。ただ、父が倒れて日ならずして最期を迎えるまでのことは覚えていたのか、一年前の最初に倒れた日と同じ日に、当時の出来事を記録したノートを見返しながら、自分の身に湧き起こる感情を確かめることとなった。
 
その後、一周忌の準備をした。冬の寒い季節で身体を縮こませながら動いている時に、亡くなるまでの父の様子などを思い出してもよかったのだが、なぜかそのような気持ちにならなかった。前日の夜は、すこし疲れを覚えながら、眠りについた。
 
当日は、参列者をお迎えしながら、一年の時が経ったことを改めて感じた。お勤めの後、ご法話をいただき、簡単なお茶菓子を前に、話をする時間となった。この時、なぜか父のことは一つも話題にのぼらず、法話の内容について、また集まった人たちの身の回りのことについての話となった。このことに気がついた私は、父の法事に集まることで、遺された者が出会い直すことになったのではないかという感想を最後に話した。この時、笑顔も生まれ、なんとなく、「法事というのはいいものだな」という気持ちになり、胸の真ん中が温かくなった。
 
改めて一周忌のことを振りかえると、前日の夜に覚えた疲れが気になった。諸々の準備をしながら、自分では意識しないなかで、「面倒だな」「煩わしいな」という気持ちがあったように思えた。そしてここに、人に会いたくない、自分は批判されたくない、そして仏法を聞きたくないという我が身のすがたがあるように感じた。その時、幡谷明氏の次の言葉を思い出した。
 

人間はカニのように厚い甲羅をかぶってまわりを受け取ろうとしない。教えに対しても、いよいよ甲羅を重ねて教えをはねのけ、受け止めようとしない。その厚い殻の内と外、内からの真実に出遇いたいという、止むに止まれない願いと、外から何とかして真実に遇わせしめたいという深い大悲の願いが啐啄そったくしあうなかで、ようやくにして厚い殻が割れる。その割れる音、自我崩壊による新しき自己の誕生を告げる声が、「南無阿弥陀仏」というお念仏の声であります。
(『増補 大乗至極の真宗―無住処涅槃と還相回向―』方丈堂出版、二〇一三年、七頁)

 

内からの真実に出遇いたいという願いと外からの大悲の願いが接する(啐啄)なかで、ようやくにして厚い殻が割れる。この「ようやくにして」のなかに、どこまでも自我に執着する相とともにお念仏に出遇う慶びが示されている。今回の法事をとおして、面倒と思う自分の相を改めて教えられ、念仏する生活の大切さを感じた。

(『ともしび』2023年4月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)


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