時間はかかる
(松林 至 教学研究所嘱託研究員)

仏典に伝わる「キサー・ゴータミーと芥子からしの実」は広く知られる説話である。
 
幼い息子を亡くしたキサー・ゴータミーという女性が、その死を受け入れることができず、息子の遺体を抱えたまま町をさまよい歩く。釈尊のもとを訪れ、息子を生き返らせる薬を求めるゴータミーに対し釈尊は、これまで一度も死者を出したことのない家から芥子の実を集めてくるように告げる。町中を巡り歩き、死がどこの家にもあることに気づかされたゴータミーは、釈尊のもとに戻り、出家して仏法を求める者となった。
 
死別の深い悲しみによって無常の理に向き合うことのできない者を導いた釈尊の教化の姿、そして、事実に向き合うことを通して仏法に帰依していくゴータミーの求道の姿を説くものとして伝えられる説話である。私もかつて何度か、お盆やお彼岸など、身近な人を亡くした方々が集う法要の場で紹介したことがある。
 
二〇一一年に起こった東日本大震災において、多くの死者を出した現地で、発生から間もないころ、僧侶によってこの説話が語られたことが批判を受けたと知人から教えてもらった。多くの人が悲しみに打ちひしがれ、まだ時も経たぬなかで、「あなただけではないんだ」「これが世の理だ」との説教が、悲しむことが許されないかのように受け止められ、聞く人にさらなる苦痛を与えることにもなった。もちろんそれが全てではないが、そのような批判的な声は複数聞かれたのだという。
 
「キサー・ゴータミーと芥子の実」の説話とはいったい何を伝えているのか。訪ねて来たゴータミーに対し釈尊はその場で、「死は誰にも訪れる。あなたの息子だけではないのだ」と説いたのではない。町を巡る「時」を与えた。
 
私はこの説話を「お釈迦様も回りくどいものだ」「いかにもお説教らしい話だな」といった程度にしか聞いてこなかった。しかし思えば、ここには「事実を事実として受け止めるには時間がかかる」ことこそが説かれたのではないか。身近な者の死、そして無常の理という「事実」を前にして、人はそのことに時間をかけて向き合っていくのだと思う。そうでなければ釈尊は最初から説き聞かせればよかったのである。
 
省みて、すぐに説き聞かせようというのがこの私である。僧侶として仏法を語らねばならないことがある。それこそ死を巡って、こちらが逃げ出したくなるような悲しみの場面に立ち会うこともある。私にそこで何が語れるか。その場ですぐに正解を語らねばならないという私の教化者意識は止むことがない。しかし、そこで必要なのは時間なのだ。悲しみを抱えた人が、その思いを語り始めるための時間。仏法を聞かせていただいている私が、語る言葉を紡ぎ出すための時間。そのなかで、共に目の前の事実にゆっくりと向き合っていくのである。
 
この春、震災の地は十三回忌を迎えた。説話が伝える「時」が少しずつ経っていく。「キサー・ゴータミーと芥子の実」の説話には大事なことが伝えられているのだと、今、受け止めたい。

(『ともしび』2023年5月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)


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