所内研究会「初期真宗における“師”と“弟子”」
(御手洗 隆明 教学研究所研究員)

教学研究所「真宗の歴史研究」研究班では、二〇〇八年の『親鸞聖人行実』刊行後も宗祖伝を中心に調査研究を進めている。二〇二一年度は山田雅教氏(浄土真宗本願寺派西勝寺住職・元本願寺史料研究所客員研究員)を講師に招き所内研究会を開催した。山田氏の出講は二〇一五年以来二度目となる。前回は初期真宗の儀礼(講義録「大谷廟堂から本願寺へ─堂空間の変遷と仏事─」『教化研究』第一五八号、二〇一六年)をテーマに、儀礼が行われていた建物や場所、仏事について講じられた。山田氏は、その後もこの問題の研究を積み重ね、『中世真宗の儀礼と空間』(法藏館、二〇二一年)としてまとめられた。このたびの研究会は、同書で考察された初期真宗の宗教的空間にいた人々について、「“師”と“弟子”」というテーマで考究を行ったものである。
 
講義では、まず宗祖自身の言葉によって「師」と「弟子」について吟味され、特に信心との関係から確かめられた。阿弥陀如来の他力回向により信心をいただいた人を「真仏弟子」とする考え方は宗教的な地平に立ったものであり、金剛心が成就する人間像を語っていると捉えることができる。そこには人間と人間との関係は介在せず、「わが弟子、ひとの弟子」という問題は起こってこないはずである。
 
では初期真宗における師弟関係の実際はどうだったのだろうか。山田氏は宗祖の著述や語録に見える「弟子」の用法をおさえながら、「法然の門弟には入室者なる直弟と一時止住のいわば客分的な出家同法者があった」(『伊藤唯真著作集 第一巻』二六〇頁、法藏館、一九九五年)とする見解により、初期真宗では厳格な師弟関係を意味する「直弟」と、ゆるやかな集いである「出家同法」(同朋)というあり方が併存していたと述べられた。宗祖のように比叡山を降りた門弟もいれば、そうでない門弟もいる。それが法然の念仏集団の実際であったという指摘である。すると、「弟子一人ももたず」は、共に法然の弟子であるという宗祖の自覚と、法然門下の「ゆるやか」なあり方を終生意識し続けていた証左となる。このように、宗祖はあくまで法然門弟として行動し、考えていたというのである。
 
確かに、初期真宗時代の念仏集団のあり方を、近年では「親鸞門流」「親鸞系諸門流」と称すことが多い。これは、組織された「教団」のイメージを否定し、初期真宗の「ゆるやかさ」を、正確に表現することを意図して「門流」としたものである。
 
このように、講義では宗祖の著述と語録に見える師と弟子についての考え方をおさえながら、宗祖の在世時を含め、初期真宗での師弟のあり方の実際を同時代の文献や絵画史料によってたずねられた。
 
質疑応答では、初期真宗の「弟子」についての質問があった。山田氏は、師資相承という作法によって厳格な師弟関係を結んだ直弟もあれば、出家者ではない「同朋」(同行)もあるという「ゆるやか」な師弟関係が初期真宗の実際であったと応じられた。この「ゆるやかさ」が光明本尊から読み取れるという。
 
さらに山田氏は、この時代に組織された「教団」はなかったという意味で、「教線」など教団の存在を前提とした表記に違和感を示された。初期真宗の「ゆるやか」さを理解するには、現代の教団をイメージしたまま考えるのではなく、先入観によらず、当時のことは当時の考え方(文脈)のなかで理解しようという姿勢を示されたのであろう。
 
また、初期真宗ではどのように経典を読んでいたのかという質問もあったが、山田氏は「史料がないからわからない」と応じられた。同じ応答が前回の研究会でもあったが、この「わからない」を共有し、史料的限界の克服を目指すことが、真宗史の課題であることを思い起こした。
 
歴史はわからないことばかりである。住職として寺院に身を置きながら研究を続ける山田氏の姿勢に、あらためて学んでいきたい。

(教学研究所研究員・御手洗隆明)

([教研だより(202)]『真宗』2023年5月号より)※役職等は発行時のまま掲載しています