浄土真宗のならいには 念仏往生ともうすなり

法語の出典:『一念多念文意』『真宗聖典』545頁

本文著者:冨岡量秀(大谷大学教授・三条教区圓德寺候補衆徒)


最近、子どもたちの読解力の低下が教育の大きな課題となっている。また昨年、国立情報学研究所から出されたリポートには「教科書が読めない」ことが大きな社会的な危機感となってあらわれている。


読解力とは文字どおり「読み解く力」であり、文章を精読し、自分の考えを深められる力と言える。今後ますます求められる力と言えるだろう。読解力獲得の課題の背景には、文や言葉の定義がきちんと理解できないと、新しい語彙を正確に獲得できなくなっていく問題があることが指摘されている。


さて、子どもの読解力が課題とされる中、子どもたちの周りにいる大人たちはどうなのであろうか。読解力があるのだろうか。もし、自分の既存の知識や価値観で理解できる内容や、興味のある内容しか読み解けない、あるいは「読み解こう」と試みないのであれば、それは本当の読解力ではない。現代に生きる「大人」たちの現実には、そんな傾向が強く見られる。だからこそビジネス雑誌の特集には「教養」の獲得が盛んに取り上げられ、哲学書や古典などの概要、図解などが求められ、とにかく「わかりやすさ」が追求されている。そこには「わからない」ことに向き合い、真摯に追求する姿勢、そして何よりも「なぜ宗教が人間にとって大切にされてきたか」という、崇高な人類史に対する謙虚な心が失われているのではないかと感じる。


二十世紀最大の科学者であるアルバート・アインシュタイン(1879-1955)は、人類にとっては、ブッダやモーゼやイエスのような人たちの功績の方が、科学を探求した人たちの業績よりも大きな意味があると語った。その理由は、人類が人間としての尊厳を守り、生存を確保し、生きる喜びを維持し続けるためだからである。しかし現代の風潮は、アインシュタインやさまざまな分野の偉人たちの、宗教に対する深い造詣や思索さえもなかったかのようにしてしまう傾向があると感じる。なぜなら「わかりにくいから、自分には関係ないから」など、自分だけの知識や価値観で理解できる内容、興味のある内容しか読み解けない、読み解こうとしないからである。そのような「大人」たちに囲まれて育つ子どもたちに、読解力は育つのだろうか。


現代はAI(人工知能)の時代と言われる。AIにより人間に求められる仕事が変わり、AIやロボットへの代替可能な職業が数多くあげられている。そのような時代にあって、読解力は重要なキーである。読解力を高めるためには、その原動力となる「問いを生み出す力」がなければならないからだ。この「問いを生み出す力」が、今のAIには不得意な力である。「わかりやすさ」を追求する現代の「大人」は、この力を放棄しているのではないか。


親鸞聖人が『一念多念文意 』の中で「浄土真宗のならいには念仏往生ともうすなり」と簡潔に示されたことを、どのように読み解くことができるのだろうか。この言葉にふれた時、簡潔で明確であるがゆえに、「浄土真宗のならい」だから「わからない・自分には関係ない」と、すぐに問題をすり替えてしまうことが起こる。


しかし、この簡潔な法語は、われわれの生きるべき道は何か、帰するべきところはどこかという、人間存在にとってもっとも大切な問いを呼び起こす言葉である。そして「なぜ」と問うべき明確な示唆がある。「自分には関係ない」ことではない。この一文は、親鸞聖人から、現代に生きる私たちへの、自分自身の課題であることに気づき、「わからない」からこそ「問い」続ける力の獲得を願われたメッセージだと私は思う。そして子どもたちへ受け継ぐ願いが込められていると思うのである。



東本願寺出版発行『今日のことば』(2019年版【7月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2019年版)発行時のまま掲載しています。

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