わだばゴッホになる


                 棟方志功

洋画家の小野忠明を訪ねた時、「わだばゴッホになる」と言ったところ、雑誌『白樺』に掲載されているゴッホの「ひまわり」の絵を見せられ感銘を受けました。そして、それまでの水彩画をやめ、ゴッホのような油絵を描くようになっていきました。

1924(大正13)年、棟方は21歳で絵描きになるため勉強しようと東京に向かいます。そして、苦労しながらも絵の勉強を続け、1928(昭和3)年第9回帝展に油絵《雑園》が見事入選しました。その頃は油絵で描いていましたが、目が弱いため洋画を描くには不利でした。そこで、日本人である自分らしさを活かした世界を持ちたいと思った棟方は、ゴッホも高く評価した日本の版画で自分の世界を表現しようと思い至ったのでした。

1936(昭和11)年、第11回国画会展に板画《瓔珞譜(ようらくふ) 大和(やまと)(うるわ)し版画巻》をたまたま見た審査委員の濱田庄司が柳宗悦を呼び作品を見せました。

見ていた吾々(われわれ)はすべては皆この絵にすぐに惹きつけられた(中略)器用な絵の中にただ一つ野生の花が活き活きと咲いているのだ。

(柳宗悦『工藝』「雑録」71号)