苦境にある時
(都 真雄 教学研究所助手)
二年前、マイケル・サンデル氏の『実力も運のうち―能力主義は正義か?―』(早川書房、二〇二一年)によって、「絶望死」という言葉を知った。その言葉は現在のアメリカにおいて、多くの社会的な弱者が、不遇な環境にあり、薬物の過剰摂取・アルコール性肝臓疾患・自死で亡くなっていることを表している。能力主義の暗部である差別的な側面を知らされるものである。
現在の日本ではそれほどの状況ではないにしても、これからの日本にとって全くの無関係とも思えない。ロシアのウクライナ侵攻や新型コロナウイルス感染症の流行等で、経済的な被害や会社の倒産数が増えており、また心の病や自死、格差や貧困が問題となっているからである。その背後には、すべては自己責任であり、何らかの能力ある者のみが生き残る弱肉強食の世界観があるのだろう。それは自力我執に依るものであり、その様相から五濁の世や末法の時という言葉が想起される。
想えば宗祖親鸞聖人が自覚され生きたのも末法だった。現代からすれば差別的な階級社会であり、戦乱や飢饉があった過酷な世界である。戦乱が起れば世相は急変し、飢饉が起れば夥しい数の人が亡くなっている。その中で宗祖がどのような日常を過ごされたのか、詳細は不明である。しかし、例えば『御消息集(広本)』には、
とあり、あるいは『歎異抄』には、
とある。これらの言葉からも宗祖が、往生については何事も凡夫である自らのはからいではなく、本願にまかせて他力を重んじていたこと。そして煩悩にみちた凡夫や現世のあらゆることは、「そらごと」や「たわごと」であり、真実なきものであり、念仏のみが真実であるとされていたことが知られる。まさに本願を信じ念仏を申して生きていたのであり、そのことを何よりも重視する生活だったのである。
今、様々な面において苦しい時代であるのを痛感する。しかし同時に教えに向きあう機会になりうるとも思える。時代が混迷してくると、平時に増して、どのように生きるのか、ということが切実に問われるからである。日々の生活の中でも、気づけば自力我執に埋没し、時代によって変化していく社会のものさし(価値観)に振り回されているが、苦境にある時こそ、いつにも増して自らの立脚地が厳しく問われていることを感ずる。
知らぬ間に我執の中にいる私は問いかけられ、気づくことを促されているのである。今こそ幾度も教えを聞きなおし、どこまでも平生から他力を重んじた宗祖の生き方に学びたい。
(『ともしび』2023年8月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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