お口に合いますか
(梶 哲也 教学研究所助手)

四月からこの職に就き、平日は職場近くに一人で住むことになった。一人暮らしは学生時代以来だから、約十五年ぶりになる。
 
掃除や洗濯は今までもそれなりにやってきたから問題ない。課題は料理だ。学生時代は全面的に学食とコンビニに依存していた。しかし、四十歳を過ぎ中年となった今、それは難しい。身も財布も持たない。なんとか自炊をしようと悪戦苦闘している。
 
最近はネットで検索すれば様々なレシピを見ることができる。だから、書いてある通りに作るだけなのに何を大袈裟な、と思われるかもしれない。私自身もそう思っていた。しかし、実際に作ってみると、それほど簡単なことではなかった。確かにレシピには料理の作り方が書いてある。だが、それを書いた料理人の意図を、こちらが受け取れるかどうかは別の問題だ。
 
例えば野菜炒めのレシピに「にんじん、なす、ピーマンを一口大に切る」という指示がある。自炊を続けて数ヶ月経つが、いまだに納得のいく「一口大」に野菜を切れたことがない。最初は大きく切り過ぎて火が通らず、一口で食べることもできなかった。それではと細かく切ってみれば、もはや野菜炒めではなくなっていた。調理法の違いによっても相応しい「一口大」は違うようで、意図したものがなかなかできない。漫然と様々な料理を食べてきて意識しなかったが、何かを作ろうと思ったらまず、その料理について確固としたイメージなり本質を掴んでおかなければ、野菜一つキチンと切れないようだ。 
 
そのようなことを繰り返しながらふと、この「一口大」の試行錯誤は、仏陀の言葉をどう受け止めるのかということに似ていることに気がついた。
 
例えば仏弟子の戒律に加えて釈尊が経験した様々なエピソードが説かれる『五分律』には、滅ぼされんとしている釈迦族を助けようとする目連に対して、釈尊が「定まった報いの因縁をどうして変えることができようか」と言って、滅ぼされるままにした事件が伝えられている。この事件だけを取りあげて背景を知らなければ、釈尊は非情なのだとか、仏陀であっても不完全な存在なのだ、と切り取られてしまう。「定まった報い」という言葉から、運命論者としての釈尊が形づけられてしまうかもしれない。
 
しかし、そのような切り口でこの事件を扱うことはできない。なぜなら、仏教が老病死の苦しみからの解放を課題とし、それを達成した者が仏陀なのだという確かめを通さなければ、この事件から仏陀の言葉を味わうことはできないからだ。誰もが経験せざるを得ない老病死の苦しみから解放された釈尊の事件として受け止めて初めて、「定まった報い」と言って自身の故郷の破滅を止めなかったその真意を咀嚼することができる。
 
野菜は、ともかく私が美味しいと感じられるように切ればよい。しかし仏語は、仏陀の口に合うように料理しなければ、その本当の味わいを私達が知ることはできない。


(『ともしび』2023年10月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)


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