わがこころよければ 往生すべしとおもうべからず

法語の出典:「親鸞聖人御消息」『真宗聖典』594頁

本文著者:東舘紹見(大谷大学教授・仙台教区善林寺住職)


このお言葉には、私が浄土に往生する道を歩むこと、すなわち、阿弥陀如来のはかることのできないいのちと光を敬いつつ生きることとはどのようなことなのかが示されています。


私が阿弥陀如来のいのちと光に出遇ったことを示すできごととして、私自身の姿が知らされる、言い当てられるということがあります。


それまで自分を「よきもの」として正当化しようとし、ごまかし、言い逃れを続けてきた自己中心的なあ   り方が白日のもとにさらされる、どうにも否定のしようがない姿が言い当てられる。それは私にとって、本当に逃げ場のない厳しいできごとです。そして、その私にとって最も大切な出遇いは、私と共にある存在をとおしてなされます。


ところが、おそろしいことに私は、そうした自分自身のどうしようもない姿を照らされ知らされた大切な事実をも、すぐにまた、自らを「よきもの」として立てていくことに利用しようとするのです。その時にはすでに、自らのあり方を照らされ、言い当てられた時の身の置きどころのなさ、はずかしさは消え失せてしまっています。そして、自らのあり方を言い当てられたそのこと自体をたのみとして、今度はそれにさっそく寄りかかり、他者を批判し否定しようとするのです。せっかくいただいた念仏の功徳を、自分でもほとんど気づかないうちに、自らをふたたび「よきもの」にしていくために呑み込んでいこうとする、どうしようもなく傲慢な姿です。


そのような時、私が頭の中に思い描いている「浄土」とは、一体どのようなところなのでしょうか。それはもはや、私の闇を照らし出してくれる存在ではなく、そうした存在すら自らのうちに取り込み居直ろうとする私が、ぬくぬくと逃げ隠れるのにちょうどよい場であるにすぎないでしょう。私の、自分を「よきもの」として立てようとする心の闇の深さは、本当に果てしがないように思われます。


私にとって皆と共に往生道を歩むこととは、常にそうした私の姿が、ただ照らされ、破られ続けることなのでありましょう。そして、そこにおいてのみ、共にある自他のいのちの尊さが実感され続けるのでありましょう。


不可思議の利益きわまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらわしたまえり。このゆえに、よきあしき人をきらわず、煩悩のこころをえらばずへだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。 (真宗聖典五九四~五頁)

(不可思議の利益がきわまりないかたちを、天親菩薩は「尽十方無碍光如来」とあらわしてくださいました。そうであるのですから、善い人、悪い人と区別せず、煩悩の心を拒否せず否定しないで、必ず往生するのだと知れ、と教えてくださっています)


私の思いが徹頭徹尾自己中心的である限り、自他を疑いつつ、不確かな自らの判断や考えを頼りに生きようとする性根は変えようがないのだと思います。しかし、だからこそ共に生きよう、共にあろうとしてくださる存在から、自らの姿が照らされ知らされ、素直に頭が下がった瞬間のありがたさ、尊さも実感できるのだと思います。


これからも、あらゆる存在を真に尊敬し、共に歩まんと願う生き方は、ひとえに、自らを「よきもの」として立てようとする闇の深さを照らされ破られるところにこそいただくものであることを、「わがこころよければ往生すべしとおもうべからず」との宗祖の懇ろなお諭しとともに、日々の生活の中に教えられ続けていきたいと思います。



東本願寺出版発行『今日のことば』(2019年版【9月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2019年版)発行時のまま掲載しています。

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