ジャータカが語り出したもの
(宮下 晴輝 教学研究所長)

ジャータカとは、仏陀釈尊(五六六―四八六BCE)の過去の生涯の物語のことである。バールフットの仏塔の塔門や欄楯らんじゅん(仏塔をかこむ石の柵)には多くのジャータカ物語のレリーフが見られるから、共通紀元前二世紀ころにはすでに多くの物語が語られていたと考えられる。仏陀入滅後三〇〇年ころのこととなる。どうしてそんな物語が必要になったのだろうか。
 
物語の内容分析を漫然とはじめれば、その理由をごまんと並べることができるだろう。それを採らないとすれば、どうして〝仏陀釈尊〟にのみこんなにも多くの過去の生涯の物語が必要になったのか、という問いを立てることからはじめることができよう。いずれにせよ、三〇〇年後にそれまでに見られなかった方法で〝仏陀釈尊〟のことを語り出したという事実はある。だから、三〇〇年後の物語の語り手たちにとって〝仏陀釈尊〟とは何だったのかと問うことに意味はあるだろう。
 
私事になるが、一九八〇年二月、私のインド留学中に、大谷専修学院の信國のぶくにあつし院長が示寂された。専修学院の講師をしていたということもあってか、そのことを京都から毛筆のお手紙でしらせてくださったのが、竹中たけなかしゅう先生だった。その半年後には帰国して、再び学院の講師を続けた。それから何年かたってからであったが、学院の教職員室で竹中先生と会話していたとき、竹中先生が「これからは信國先生のジャータカですね」と語られた。その時、なぜか不思議と納得して「そうですね」と私は即座に応えた。そういうことがあった。
 
私にとって信國先生は「真実まことの信仰の人」である。二四歳のとき、学院に入学した。毎週月曜日の午前に、信國院長先生の『歎異抄』の講義があった。「これから、私にとっての信仰の事実をルポルタージュします」と話された。「なんだって!?信仰に事実があるというのか」と思った。しかもそんな事実が起こったことをルポルタージュすると言われたのに、私は驚愕きょうがくしてしまった。 
 
竹中先生もまた専修学院で信國先生に出遇い、教えをいただいたのであった。だから信國先生は、その学院にあっては、私たちの師である「真実に生きた人」であり、共に真実に生きるものとなろうとする僧伽の中心に存在するかたなのである。そんな関係のなかで「これからは信國先生のジャータカですね」と語られたとき、「そうですね」と心から応ずることができたのだと思う。
 
滅後三〇〇年の僧伽の中心にあった仏陀を生みだした心は何であったのか。それを語り出そうと、実に多様な求道物語がジャータカとして語りだされた。そしてそれはやがて菩提を求める衆生という意味をもった菩薩の物語と呼ばれるようになる。ではその菩薩の求道心そのものはどこから生まれたのか。それは仏陀に出遇ったから仏陀になろうと願ったのだという、菩薩誕生の物語(燃灯仏授記物語)が最後に語られた。仏道のはじまりは仏陀との出遇いにある。ジャータカが語り出したものは、これである。


(『ともしび』2023年11月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)


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