いがたし

著者:松井 憲一(元大谷大学非常勤講師・道光舎舎主)


 


「言っていた 長生きしてね 言われだし」という川柳せんりゅうのように、80歳を過ぎると「あと5年 5年すぎると もう5年」と、欲がでてきます。しかし、命の尊さ(ご縁・関係性)を知り、一人で親になったのではなく、子を授かって親になったのであり、妹ができて兄になったと受け止める場がなければ、長寿になっても何かむなしさを覚えるのではないでしょうか。日月草木大地に無条件で支えられてある私に気づけば、歩む道は365日24時間、報恩の日々であります。


 親鸞聖人は「愚禿釈ぐとくしゃくの親鸞、よろこばしいかな、西蕃せいばん月支がっし聖典しょうでん東夏とうか日域じちいき師釈ししゃくいがたくして今遇うことを得たり」(『教行信証』総序)と言われます。「遇いがたくして」とは、努力して真剣に聞法もんぽうすれば、いずれは分かり、うなずけるはずだという思いがあるからです。聖人は、こういう思いの底を抜け落とすことに20年ご苦労されました。「今遇うことを得たり」とは、そのいずれは分かり、頷けるはずだという思いの底が抜け落ちて、「南無阿弥陀仏」と五体投地ごたいとうちされたからでしょう。


 良く思われたい、いい人と思われたいと、頭を上げることばかりを考えているわれわれは、頭を下げることはできますが、頭の下がることは一切ありません。頭の下がること、帰命の心をいただくことに、自分の力はまったく無効なのです。

 
 それで、聖人は、「「帰命」は本願招喚ほんがんしょうかん勅命ちょくめいなり」(『教行信証』行巻)と言われます。南無阿弥陀仏は、欲から抜け出せずに悩み苦しんでいるわれわれをそのまま、まるごと救おうとする本願からの呼び出し状であり、その呼び出し状への応答なのです。だから、応答とはいっても恩返しではなく報謝の行なのです。阿弥陀仏の無限の慈悲に包まれている中でおこる、自分の思いの底が抜ける出来事・回心なのです。


 聖人は、ご自分の回心を「雑行ぞうぎょうてて本願に帰す」(『教行信証』後序)と記されます。「雑行を棄てて」と記されるのなら「正行しょうぎょうに帰す」と書かれてもよいようにも思われますが、あえて「雑行を棄てて」と記されるのは、本願に帰し南無阿弥陀仏と申していても、本願に応答する南無阿弥陀仏をいつも雑行、つまり自分の思いの行にしていく我が身を見つけられたからでしょう。


 だから聖人は、回心以来、ひたすら念仏に聞き、念仏申す歩みを55、6年重ねられても、「小慈小悲しょうじしょうひもなき身にて 有情利益うじょうりやくはおもうまじ」(『正像末和讃』)と、素晴らしい立ち居振る舞いをしても、自分中心の思いを捨てきれず、いつわりに満ちているのがわれわれなのですと、ご自身の体験を通して語られます。


「遇いがたし」とされるのは、個人の力が足りないというのではなく、われわれが属する時代社会全体の問題でもあるのです。次第に汚れきっていく世の中を、仏教では「五濁ごじょく」(劫濁こうじょく見濁けんじょく煩悩濁ぼんのうじょく衆生濁しゅじょうじょく命濁みょうじょく)と教えます。


 例えば「煩悩濁」については、自分中心の思いに引きずられるから真実に遇うことはなく、自分中心の思いは「塵数じんじゅのごとく遍満へんまんす(ちりのように世にみちみち)」、むさぼりやいかりのこころは、「高峯岳山こうぶがくさんにことならず(そびえたつ峰々のようだ)」(『正像末和讃』)とうたわれます。


 また「見濁」については、邪見じゃけんよこしまな思想)がはびこり、「叢林棘刺そうりんこくしのごとくなり」(同前)といばらやからたちが人を刺すように、念仏の人びとをそしり傷つけ、弾圧を加えると言われます。


こうして聖人は、五濁の世を生きるわれわれ一人ひとりの姿を示して、この私に本願の救いが約束されていることを説かれ、なぜ南無阿弥陀仏の御教えでなければ救われないかを、私の深い闇を見抜いて、教えてくださいます。


真宗門徒の1年は報恩講に始まり、報恩講に終わると言われます。南無阿弥陀仏の御教えに自身の姿を照らされ、ともにまた、報恩の日々を歩んでまいりたいものです。



東本願寺出版発行『報恩講』(2022年版)より

『報恩講』は親鸞聖人のご命日に勤まる法要「報恩講」をお迎えするにあたって、親鸞聖人の教えの意義をたしかめることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『報恩講』(2022年版)をそのまま記載しています。

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