福井県大野市。「奥越」と呼ばれる山間部でも、さらに岐阜県境に近い同市旧和泉(いずみ)村。ここは、古くは「穴馬(あなま)」と呼ばれ、浄土真宗の信仰拠点である「道場」が点在している。その中のひとつ「川合道場」を2023年12月3日、東京都因速寺の住職・武田定光さんたち一行が訪ねた。この日は川合道場の報恩講。大野市川合地区の人たちが集まり、お勤めをする一日だ。真宗寺院の原点と言われる「道場」の仏事に、都市部に暮らす門徒たちが参加した。


村の人たちは道場を中心として信仰生活を送ってきた。川合道場は江戸時代中期にあたる1720年に建てられ、現在の道場は1859年に再築されたものと伝わる。本願寺門徒が織田信長と戦った石山合戦の際、穴馬から石山本願寺まで食糧を運んだことから「直参門徒」に取り上げられ、下付された御影像の裏書きには「直参総道場」とあるとのこと。道場の左右には八藤紋、抱牡丹紋入りの賽銭箱があり、「本山に」と賽銭を入れる。

川合道場の外観
川合道場の本堂

報恩講が始まった。導師は大野市最勝寺の住職・藤兼量さん。正信偈真四句目下、念仏讃淘五。「十徳(じっとく)」と呼ばれる礼服を着た門徒たちが前に並び、住職とともに声明する。僧俗ともに声をそろえて真四句目下、念仏讃淘五という重いお勤めをする場所は、極めて珍しいという。

新井さん(左)と末永さん(右)

ここ川合道場には、特に熱心な門徒として支える二人の女性がいる。新井千代子さん(99)と末永喜美代さん(97)。報恩講後の座談会では、二人と食事を共にした。「よく来てくださいました」と歓迎いただき、川合道場での信仰生活を伝えてくれた。

東京都から来た門徒一行が後日、道場訪問の感想を記してくれた。以下、紹介する。

川合道場の報恩講にお参りした人たち

この度、川合道場の報恩講にお参りさせていただきました。道場を支える虹梁は、東本願寺の虹梁ではないかと、見間違うほどの太さでした。四百年間の、代々の真宗門徒たちの思いが、この虹梁に乗り移っているのではないかと感じました。梁は何も語りませんが、何も語らないということが、逆に無限の言葉を物語っているように感じました。この梁は阿弥陀さんだなと、直観しました。(武田定光)


◆川合道場 報恩講

《プロローグ》
 トンネルを三つ四つ潜っただろうか? トンネルの先は、ドンドン雪国に変わっていった。景色がすっかり雪のモノクロームに変わったな、と感じたころ、夕日に照らされた柔らかい色合いの川合道場が現れた。外から見ると、鐘がつってある以外は、普通の小ぶりな家のような外観、しかしその玄関をくぐると、時を超えた自然の大木のままの姿の太い梁、柱、障子に守られた大きな空間が現れた。ストーブが焚かれ、意外なほど隅々まで心地よく温かだった。大人しいカメムシが時々飛び回って、この空間が自然の中にある場所であることを教えてくれた。

《伝統の重み》
開催時間になると、鐘がつかれ、集落の人が集まってきた。男性は、「十徳」と呼ばれる着なれた黒衣にキチンとした略肩衣をつけていて、風格があり、余分な脂肪のない、引き締まった体つきは、肉体を使い働いて来た年月を思わせた。今は両手に杖をついている方も、「『杖』には頼りますが要らない助けはお断りします!」と言う古武士の風情だった。女性陣は、後ろに座られたので、私はお経を読む姿を見ることは出来なかったが…。背中で聞く女性陣の阿弥陀経は、高速なのに慌てたところがなく、波のように感じる自然のリズムと響きが年季の入ったものであることを表していた。(ここはどこだろう? 今はいつ?)

お坊さまが、法話をされ、私達、遠方からの来訪者に向けて川合道場の歴史について話してくださった。最初、少し小さめだったお坊さんのお声は、全体の盛り上がりと共に暖かく芯を燃やし、全体の声明も火のように広がった。投げ銭の伝統、「道場坊主」の伝統、まず本山へと道場の左右にある八藤紋、抱牡丹紋入りの賽銭箱、元旦の朝には、おつとめの後、みんなで雑煮をいただく「お箸はじめ」などなど現場で聞くお話は心に残った。(ここは歴史の現場 いまはその瞬間の輪切り)

道場という舞台で品格ある演技をした古老たちは、場の片付けを済ませると、来た時と同じように、無口にスッと夕闇に消えていった。キツネにツママレタとはこう言う感じだろうか?残ったのは、客人である私たちと、新井さん、末永さんの大人の家族。お弁当とみそ汁、お漬物、大根の煮物など、心づくしのお斎が振る舞われた。(どんなに準備が大変だったことか!) なんとも、不思議で、心に残る川合道場の報恩講だった!

《後で考えた事》
今年は、普通に報恩講をするつもりだったと伺った。しかし、先月、コロナ感染症に罹患した方が1人でたので、みんなでどのように報恩講を行うか、対策を話し合ってくださったのではなかろうか?

・遠方からの客人もあることだし、報恩講は行う。
・感染を広げる可能性のあるので御斎を皆で食べたりはしない。
・感染予防のために私語は最低限にする。
・時間に集まって、時間に帰る。
・東京からの客人の接待は、関係者の家族がする。

そんな「みんな」の取り決めがされていたように感じた。ありがたいことだ。後でお経の滑らかさに驚いたと、末永さん(97)に告げると「習ったことは一度もないのよ。子どもの頃から自然と覚えたらしく、気がついたら読めるようになっていた」「お寺に来ていつも遊んでいた」と教えてくださった。こういうのが自然な宗教の相続と言うものなのかもしれない、と思った。(祐歌美佐枝)


◆川合道場を訪ねて

この度、ご縁があって因速寺の武田定光住職と息子さんの定志さんから福井県大野市の川合道場報恩講参拝のお誘いを受けた。川合村には数軒の門徒さんたちが道場を自主管理されていて、毎朝当番制でお朝事を勤めているという。蓮如上人とも関係が深く「本山直参」という栄誉も得ているとお聞きした。お寺ではなく「道場」という場所で勤まる報恩講に参拝してみたいと思った。

そして、2016年の東本願寺のネット記事「【お寺の活動事例】「川合道場」で真宗門徒の源流を訪ねる(福井教区川合道場)」を読み、道場をずっと守っている真宗門徒の方々にどうしても直接お遇いしたくなった。特に地区内で熱心な門徒さんである、新井千代子さんと末永喜美代さんに私は遇ってみたかった。この記事は7年前のものなので、お元気ならば99歳と97歳になっているはずである。

川合道場の報恩講は2023年12月3日だった。当日は東京から5人、新幹線→特急に乗り継ぎ、福井へ向かった。JR福井駅に到着すると、福井教区通信員の藤共生さんが車で迎えに来て下さった。いくつかのトンネルを抜けていくと雪景色となり、私は今年初めての雪を見た。真冬は3メートルも雪が積もると言う。1時間位車を走らせると、道場に到着。入口にはシャキッとお立ちになった新井さんが出迎えて下さった。「うわぁ〜、嬉しい!!」一目お姿を拝見しただけで感動した。お耳が聞こえづらく、手振り身振りで挨拶や会話を交わした。やはり「遇うって、スゴイことだ!」。黙ってお姿を見ているだけでここまで来てよかったと思えてしまう。

道場内はきっと寒いだろうと思っていたが、ストーブが焚かれ、とても暖かかった。20名程の参拝者が集り、報恩講が勤まった。終了後は東京から来た私たちを「コロナでお斎はできないけれど…」と申し訳なさそうに仰りながら、大根や里芋の煮物、お漬物、けんちん汁と九頭竜舞茸弁当でもてなして下さった。そのお心遣いが温かく、とても有り難かった。

新井さんは99歳。来年4月1日(親鸞聖人と同じ誕生日)に100歳を迎えるそうだ。今は朝夕3000歩づつ(合計6000歩/日)シルバーカーを押しながら歩いていると言う。そして後で聞いたことだが、来年、本山の春の法要に参拝する、とのこと。そのために毎日歩いているのだ。本当に感動としか言いようがない。私も本山にお参りすれば今度は京都で、100歳になった新井さんともう一度、遇えるかもしれない。そう思ったらワクワクしてきた。

名残惜しく新井さんたちと別れのご挨拶をし、道場の外に出ると、辺りは真っ暗! 車に乗り込む前に道場を振り返ると、窓から漏れる明かりが、そこだけ、眩しいように輝いていた。この念仏道場がこれからも相続されていってほしいと心から願わずにはいられない。(鎌田里子)


◆川合道場の報恩講に参拝して

道路には積雪が残る12月3日、川合道場の報恩講に参拝させていただいた。お寺や別院には伺ったことはあるが、道場と呼ばれる場所は初めてだったので少し緊張があった。道場の中に出迎えていただき、中に入った途端、外の寒さを忘れてしまうほどの暖かさであり、長い歴史を感じる異空間だった。大きなお内仏、太い立派な梁、目を引いたのは、左右の賽銭箱。本山への賽銭を賽銭箱に入れてからお参りするそうだ。内陣に向かって小銭を投げ入れる「投げ銭」という伝統も目の前で見せていただき驚かされた。

こちらの道場は地区の皆さんが代々守り続けてこられた神聖な場であり、地区の皆さんが集う公民館のような役割を感じさせる。報恩講終了後には、地元名産の舞茸ご飯を始め、大根の煮物、けんちん汁等いただきながらお話を伺うことができた。今回のご縁をいただいたことに感謝致します。合掌 (黒田道子)


(福井教区通信員 藤共生)