「大谷派に期待している、たのみますよ」

岡崎教区成福寺住職 北條 親善

  

一、初めての療養所訪問

 24年前の1999年2月11日、みぞれ混じりの冷たい雨が降る中、私は駿河療養所の自治会事務所の入り口に立っていた。

 静岡県御殿場市にあるハンセン病療養所の国立駿河療養所と私の自宅とは車で一時間の距離だが、私はその日初めて療養所を訪問した。今まで何度も訪問する機会はあった。市民運動家の知人に「北條さん、いっしょに駿河療養所に行きませんか」と誘われてはいたが、積極的な返事をしない私に彼はそれ以上は勧めなかった。私の中で「ハンセン病療養所は特別な場所」という気持ちがあったのだろう。

 1996年4月、「らい予防法」が廃止され大谷派は謝罪声明を出した。「ハンセン病問題に関する懇談会(「ハンセン懇」)」を組織し、各療養所への交流が宗派をあげての取り組みになる。ところが駿河療養所は、かつてあった入所者による同朋の会「駿河真宗講」がなくなってから、関わる真宗僧侶がいなくなり、コンタクトをとる術がなかった。仕方なく、入所者自治会「駿河会」にお願いして単発の訪問を数回行えただけであった。

 1999年2月11日、冷たい雨にあたりながら私と一緒に自治会の扉をたたいたのは、当時の同和推進本部の訓覇浩さんであった。訓覇さんが私を療養所訪問に誘った時、私は条件を出した。「これは大谷派のしごとですか。それともプライベートですか。個人としてなら行きましょう」。

 私は組織で動くのは苦手であった。体制に飲み込まれることなく、自らの力、自らの考えでハンセン病問題と向き合いたかった。

 そういう私を訓覇さんは「プライベートで会ってもらいたい人がいます」と、療養所に連れてきたのだ。

 自治会事務所から出てきたのは、体格がよく、短髪で、何かに怒っているような雰囲気を持っている人だった。全国ハンセン病療養所入所者協議会駿河支部副支部長(自治会副会長)の西村時夫さんである。西村さんから療養所の現状を聞き、雨もやんだ別れ際に「大谷派に期待している、たのみますよ」と強い口調で私に語った。その言葉に私は息を飲んだ。「大谷派に期待する」とは、大谷派という組織をとおして、差別によって貶められたハンセン病を復権させてほしいという願いなのだと感じた。

 私は考え違いをしていた。個人ではなく、大谷派だからこそできることがある。そして大谷派としてやらなければならないことがある。

  

二、ナマの声で説教を聞きたい

 私はその後、大谷派の一員として「ハンセン懇」に入り療養所訪問がはじまった。

 交流の手がかりを得るために、理由もなく一人で訪問をくり返した。

 大谷派ではハンセン病問題の取り組みは重要課題であり、当時は宗議会議員研修が療養所を会場として頻繁におこなわれ、私は取り次ぎ役となった。西村副支部長はかつての駿河真宗講員に声をかけ、会場の礼拝堂にはたくさんの入所者の御門徒が集まった。

 1999年9月30日は宗議会議員の北陸ブロックの研修であった。その座談会の席で、富山県出身の松波さんが、「私は、目が見えません。録音テープで説教を聞いています。テレフォン法話でもお話を聞いています。同じ話を何度も聞く。でも、直接、ナマの声で説教を聞きたい。みなさんどうか直接お話を聞かせてください」と訴えた。

 ・直接、ナマの声で・この一言に大谷派が謝罪をしなければならなかった意味が込められていると私は思った。

 「ナマの声で聞きたい」、そう言わせるのは、私たちがその発せられていた声を聞くことのないところにしか身を置いてこなかったということ。松波さんがナマの説教を聞くために、療養所の外に出ることを許さなかったということ。仏法を聴聞することを願いながら何十年もこの療養所に生活する人がいたことを、我々の誰が意識しただろうか。

 毎月必ずナマの声の法話が聞けて、親しく交流する場を開くには、ずっと途絶えていた真宗講の再興が一番の近道であった。

  

三、真宗講再興の報恩講

 西村副支部長は、私に「松井さんに真宗講の代表をたのみなさい」と、岐阜県生まれの松井久夫さんを紹介してくれた。

 私は松井さんの住居に伺い、話し込んだ。松井さんは「皆、歳をとってますから集会は無理です」と固辞されたが、「松井さんと松波さんと私と三人で始めましょう」と強引に頼み込んだ。最後に松井さんは「自分は、そんな器ではないけれどもみんなの世話をさせていただきます」と言われた。私は「よかった」と思う反面、松井さんのこれからのことを考えると、たいへんなことを押しつけてしまったのではないかと後悔もした。

 二ヵ月後、1999年11月24日、小雨が降るにもかかわらず、入所者のご門徒17人が礼拝堂に参集した。真宗僧侶5人が加わり、療養所での報恩講が厳修された。岡崎教務所長が導師で法話講師であった。「京都の御影堂におられる御同朋、御同行と時を同じくして報恩講を迎えられるのも御縁の深いことです」という言葉が印象的だった。

 報恩講の後、真宗講を再興する話し合いがなされた。

 「松井さん、代表をやってくれ!」、「松井さんが代表だ!」集まった人々から、声があがり、真宗講の代表に松井さんが選ばれた。十数年のあいだ休会していた真宗講の再興の瞬間だった。

 それからは毎月、療養所内で定例会が開かれ、岡崎教区から誰かしらお話に来られる。法話が終わればお茶とお菓子で雑談がある。お互いナマの声である。

 そうして24年があっという間に過ぎた。松波さんも亡くなり、松井さんも、西村時夫さんも亡くなった。それでも真宗講は細々と続いている。今はコロナ感染症予防で定例会は休会中である。入所者のご門徒も少なくなった今、新しい形を見つける時にきているのであろう。

  

真宗大谷派宗務所発行『真宗』2024年1月号より