地域真宗史フィールドワーク報告 北海道地域真宗史(2)
(松金 直美 教学研究所研究員)

はじめに
 

 真宗大谷派教学研究所では、これまでに「地域真宗史」をテーマにフィールドワークを重ねてきた。地域や民衆の視点から真宗史に取り組む方法を模索する上で、地域に残存する史料を掘り起こすことを課題としてきた。具体的には寺院・道場・門徒宅に安置された本山授与物である法宝物、書き残された文書、新聞をはじめとする地域独自の刊行物、といった史料を収集し、伝承の聞き取りなどにも留意してきた。

 このような、地域に伝来した史料と、『宗報』をはじめとした本山刊行物、また行政史料や宗門の要職を担う当事者の日誌(『関根仁応日誌』など)の情報と突き合わせることで、真宗の歴史をめぐる、より豊かな実像を明らかにできる可能性を感じている。

 前述したことは、①真宗教団史と、②地域真宗史の両視点から研究課題に取り組むことと言い換えることができる。①は、本山を中心とした真宗教団の展開について、国家史とも連動して歴史をとらえる方法であり、そこに②を加味することで、①だけではとらえきれない事象にも焦点を当てることができる。

 以上のような課題のもと、前回(二〇二二年七月二十一日~二十五日、『真宗』二〇二二年十一月号)に引き続いて「北海道地域真宗史」(『教化研究』第一七一・一七二合併号、二〇二四年刊行予定に別稿を掲載予定)をテーマとするフィールドワークを、二〇二三年九月二十五日から二十九日にかけて、筆者は藤原智研究員・三池大地助手とともに実施した。
 

一、北海道の近世真宗史―函館別院―
 

 九月二十五日、まず函館別院船見支院(真宗大谷派、函館市船見町)を訪問した。同院には前回も訪れており、その際、祖師前の厨子に、真向きの親鸞聖人御影が安置されていることを確認していた。函館別院本院(函館市元町)には、木造の親鸞聖人真影が本尊・阿弥陀如来立像と並列で安置されているが、絵像の親鸞聖人御影は現存しない。

 船見支院に安置されている真向きの親鸞聖人御影は、本来、本山直轄の御坊・別院に安置されるべきものである。そのため、もとは本院に安置されていた可能性が想定された。今回、事前に厨子から出していただいた御影を確認したところ、裏書は残されておらず、残念ながら授与の時期や宛先を確かめることはできなかった。ただし本院は一八七九(明治十二)年の焼失後、道路改修のこともあって、一時期、船見町に移転されていたようである(『北海の教礎』)。そのようないきさつから、船見支院に安置されることになったのではなかろうか。

 船見支院の一室に、仏壇が安置されていた。門徒宅に伝来したものを預かったという。脇掛け(十字名号、九字名号)を確認すると、東本願寺第十七世真如上人(一六八二~一七四四、在職一七〇〇~四四)が書いたものであった。仏壇は金沢仏壇の特徴を有するものである。金沢(石川県)あるいはその周辺の北陸からの移民が、仏壇を携えて北海道へ移り住んだのであろう。真宗門徒の移民は、北海道においてもなお、お内仏を中心とする生活を営んでいたのである。

 その後、我々は函館別院本院へ移動して、法宝物の調査を行った。調査には、松前專念寺(北海道教区第一組、松前郡松前町)の福島重氏にも立ちあっていただいた。法宝物のうち最も古いのは、教如上人(一五五八~一六一四)の裏書がある方便法身尊形である。「願主釈宗信」に宛てられており、宗信なる人物が預かる道場の本尊として授与されたものになる。移民とともに北海道へもたらされたと考えられ、貴重である。また聖徳太子御影・七高僧御影、ならびに親鸞聖人御絵伝(四幅)は、いずれも一七五九(宝暦九)年六月二日に「松前專念寺掛所箱館村浄玄寺」に宛てられたものである。函館別院の前身は、現存する道内最古の真宗寺院である松前專念寺の掛所・浄玄寺として、箱館村に所在していた。その時に授与された法宝物類になる。同寺は移転を繰り返した歴史があり、前掲した法宝物類と同年の一七五九年に「專念寺掛所浄玄寺」と公称して、東本願寺第十八世従如上人(一七二〇~六〇、在職一七四四~六〇)から親鸞聖人御影(現存せず)などが授与されたという(『北海道寺院沿革誌』)。

 以上のように函館別院は、近世中期に松前專念寺の掛所である寺院として整備されていき、幕末の一八五八(安政五)年、幕府が蝦夷地開拓を進めるにあたり、本山からの命で本山掛所となった。伝来する法宝物・史料を調査することで、近世の道南地域には着実に、真宗の歴史が展開していたことを、前回に引き続き確かめることができた。
 

二、交易と真宗の教線
 

 二日目の二十六日は、前日に続いて福島重氏にも同行いただき、函館市から大野国道(国道二二七号)を通って、檜山郡江差町の方面へ向かった。この国道は、「江差街道」などとも呼ばれ、一八五八(安政五)年にはすでに開通していた道路であるが、通行に支障をきたす状態だったため、一八七〇(明治三)年から着工された「本願寺道路」と同時期に、東本願寺が資材を投じて大改修している。また本願寺第二十二世現如上人(一八五二~一九二三、在職一八八九~一九〇八)が一八七〇(明治三)年に札幌から函館へ戻る帰路、通行した道路でもある。

 江差町へ行く途中、專得寺(北海道教区第二組、爾志郡乙部町字緑町)へ立ち寄った。同寺は一七六〇(宝暦十)年に、松前專念寺の掛所である乙部專念寺として始まり、一八七二(明治五)年に專得寺と改称している(『北海道寺院沿革誌』)。同寺に「蝦夷錦七条袈裟」(乙部町指定有形文化財)が所蔵されていると知り、訪問した。その七条袈裟の裏に墨書された記載によれば、一八七四(明治七)年三月一日、能代権次郎が八十七歳で亡くなった父治兵衛の葬儀に際し、施主として專得寺へ寄進したものである。

 この「蝦夷錦」とは、中国江南地方で作られた絹織物で、十八~十九世紀頃、アイヌが和人向けの交易品として北海道へもたらしたものである。北陸の真宗寺院にも蝦夷錦の七条袈裟が伝来しており、北陸から北方へ進出した真宗門徒の商人らによって、地元の手次寺へ寄進されたものになる(大井理恵「北陸に伝わる蝦夷錦七條袈裟」『アトゥイ──海と奏でるアイヌ文化』石川県立歴史博物館、二〇二二年)。

 その後、江差町に到着した。同町ではかつてにしん漁が盛んで、鰊や木材を積み出す港として繁栄した。この町にある真宗大谷派の江差別院(檜山郡江差町字中歌町)を訪問した。同院も松前專念寺の掛所として始まり、一八七九(明治十二)年に本山直轄の別院となっている。一八九三(明治二十六)年六月二日付で「江差別院太子講中」宛に現如上人から御消息が授与されており(『真宗史料集成』第六巻)、そこに前年の一八九二(明治二十五)年に聖徳太子像が安置されて太子講が結ばれた、と記されている。そのため、特に太子信仰の実情を確かめるべく、調査を実施した。厨子に安置された聖徳太子立像や近代に制作されたとみられる聖徳太子伝絵(四幅)などを拝見した。毎年五月第三週の土日に太子講が営まれ、余間に聖徳太子伝絵が掛けられるという。太子信仰の盛んな北陸からの移民とともに信仰が伝来したと推測される。

 その後、さらに南下して上之国勝山館跡(檜山郡上ノ国町勝山、国指定史跡)へ行った。勝山館は、十五~十六世紀、陸海交通の要地に設けられた蠣崎かきざき氏(のち松前氏と改姓)の居城であった山城跡である。史跡として整備されており、日本海を望む場所に設けられた、中世の壮大な「館」の様相を目の当たりにした【写真1】。この史跡からは、日本・アイヌ・中国の文物が出土しており、交易の拠点であったことが確かめられるという。

【写真1】上之国勝山館跡

 初めて蝦夷島へ浄土真宗を布教したのは、本願寺第八世蓮如上人の弟子である弘賢で、一四九九(明応八)年に松前上ノ国で一宇を建立したとも伝える(「菊池院浄願寺系譜」)。現地に立つことで、人や文物の交流によって、さまざまな文化が交錯していた土地に、真宗布教の端緒があったことに思いを巡らせた。
 

三、現如上人の足跡と錦絵
 

 三日目の二十七日は、一八七〇(明治三)年七月に現如上人一行が初めて北海道を訪れた際の行程【地図】をたどった。

【地図】現如上人行跡と本願寺道路(『南御堂』新聞〈真宗大谷派難波別院発行〉、2022年2月号より転載)

 北海道から本州へ戻った現如上人一行は、同年九月十八日に東京の浅草御坊へ到着している。現如上人一行が東京に滞在中の一八七一(明治四)年二月、東京の甘泉堂が「現如上人北海道御開拓錦絵」などと称される錦絵(十九枚または二十枚)を発行した。フィールドワークに際しては、錦絵に描かれた場所を確認しながら移動した。この錦絵は、北海道開拓を扱う文章の挿絵として度々用いられてきた(『北海道東本願寺由来』に「江戸絵」として掲載、「北海記聞 苫屋の夢」『真宗』一九二九年四月号~六月号)。錦絵にはアイヌに対する差別意識が内包されており、その問題に留意する必要がある。その上で、錦絵に基づいて北海道開拓が語られ、イメージされてきたことの意味を確かめていきたい。

 まず二海郡八雲町落部ふたみぐんやくもちょうおとしべ(錦絵「落部村」)、続いて同町山越やまこし(錦絵「山越内」)をたどった。山越は、山越内関所があった場所でもある。一八〇一(享和元)年、亀田(函館市)にあった関門を、和人居住地と蝦夷地の境が北側に改められたことから、この地に移転して設置された日本最北の関所であった。

 そして錦絵「本府御酒被下之図ほんぶごしゅくださるのず」の舞台である「遊楽舞ゆうらっぷ村」の所在地へ向かった。現在、地名としては残っていないが、「遊楽部ゆうらっぷ川」という河川名が用いられている。さらに北上して、山越郡長万部町国縫やまこしぐんおしゃまんべちょうくんぬい(錦絵「訓縫くんぬい)」「訓縫 其二」)を訪れた。

 近代以降の人と文物、そして文化の往来を確かめる上で重要なものに、鉄道がある。そこで錦絵に登場する地名を確かめるにあたって、鉄道の駅をたどった。北海道の鉄道は一八八〇(明治十三)年に、手宮(小樽市)と札幌の間に開通したことに始まり、その後、道内各地に延伸していった。当日は、函館本線の落部駅、山越駅、八雲駅、国縫駅に立ち寄った。現如上人が北上した陸路の行程が、その後に敷設される鉄道の路線と重なる区間も多いことは興味深い。

 長万部町まで、内浦湾沿いの海岸を北上したところで、黒松内町の山道を通過して、日本海側の寿都郡寿都町歌棄町すっつぐんすっつちょううたすつちょう(錦絵「歌棄」)へ出た。

 さらに海岸線を北東に進み、岩内郡岩内町敷島内いわないぐんいわないちょうしきしまないに至った。錦絵に、荷物を載せた馬や人が谷底へ落ちるような難所として描かれた「雷電らいでん越の危難」と題された舞台を探した。場所の特定はできなかったものの、付近に「弁慶の刀掛岩」と名付けられた岬があり、そこまでの道のりは難所であることを近くの展望台から眺望した。

 その後、智惠光寺(北海道教区南第三組、岩内郡岩内町清住)に参拝した。同寺は、一八五九(安政六)年夏に、東本願寺第二十一世厳如上人(一八一七~九四、在職一八四六~八九)が、蝦夷地布教のために道場創建の消息を認めて使僧を派遣したことに始まる寺院である。同年七月十日には、「岩内本願寺掛所」の号が許可され、親鸞聖人御影が授与されたという(『北海道寺院沿革誌』)。本堂の祖師前には真向きの親鸞聖人御影が、余間には厳如上人御影と厨子に入った聖徳太子像が安置されていた。厳如上人に始まる寺院であるとの歴史を大切にされていた。そして一八七〇(明治三)年七月、現如上人一行が宿泊した寺院でもある(『北海道東本願寺由来』)。お内仏の脇掛(十字名号・九字名号)が現如上人筆であり、その時の足跡とも考えられる。

 そして余市郡余市町(錦絵「余市早発そうはつ」)の即信寺(北海道教区北第三組、余市町梅川町)に到着した。亀谷亨住職から同寺の歴史について解説いただきながら、法宝物や史料を拝見した。同寺支院である即信教会(余市郡余市町大川町)の本尊として安置されている方便法身尊形は、一八六七(慶応三)年二月四日に、「蝦夷国箱館御坊付 与市道場」に宛てて授与されたものである。「与市道場」は山碓やまうす(余市町港町)にあったというが、即信寺に直接つながるかは確かめられない。同寺の歴史は、一八七〇(明治三)年七月に、現如上人が北海道巡化の際、当所への道場設置を許可したことに始まるという。聖徳太子御影・七高僧御影が一八九三(明治二十六)年九月に授与されており、この頃には余間のある本堂が建立されていたとみられる。本堂の横にある即信寺会館「とも」の本尊である方便法身尊形は、一九〇六(明治三十九)年七月二十一日に現如上人から「後志国しりべしのくに余市郡赤井川村字とどろき鉱山」(余市郡赤井川村轟)の説教場に授与されたものであった。轟鉱山は、一八九七(明治三十)年に発見された金銀鉱である。炭鉱夫には真宗門徒も多かったとみられ、鉱山に、本尊を安置した説教場が開かれていることは興味深い。重労働の日々を送る人びとにとって、真宗の説教場に集うことが心の支えとなっていたことであろう。
 

四、札幌別院創建地の地域性―薄野遊郭―
 

 二十八日は札幌市に入り、札幌別院(真宗大谷派、札幌市中央区南七条西)が創建された地域性を確かめるフィールドワークを、東日本連区教区駐在教導会と合同で実施した。同院が一八七〇(明治三)年に創建された翌年九月三日、その北東に薄野すすきの遊郭が官許のもと開かれた。当日はその歴史に詳しい石川圭子氏(民衆史研究家)に案内いただいた。

 薄野遊郭の跡地のほか、妓楼で働く人びとから信仰を集めた豊川稲荷札幌別院(曹洞宗)や成田山札幌別院新栄寺(真言宗智山派)などを訪れた。石川氏は、北海道の歴史をたどるにあたって、札幌に限らず、遊郭を通して町づくりを見ていくことで、為政者が意図する政策が浮き彫りになる、と指摘された。

 このような企画をしたのは、近世初頭の京都との類似性がみられるからである。東本願寺が一六〇二(慶長七)年に徳川家康から烏丸六条の寺地を寄進された同年、その北側に六条三筋町と呼ばれた公認の遊廓が移転した。家康は、いまだ開発の進んでいなかった五条以南地域の都市化を、東本願寺と六条三筋町に先導させようとしたのである(『真宗』二〇二一年四月号)。

 都市開発を進める上で、真宗寺院と遊郭を誘致することが、さまざまな時代・地域で実践されてきた。地域が構築される際、真宗の道場や寺院がその中核となった場合は多い。地域の開発を担った人びとにとって、真宗信仰が大きな支えとなったことであろう。色々な身分・職分の人を引き寄せ、町・都市が形成されていくことで、文化が育まれた。そこには娯楽的な要素も多分に含まれ、その最たるものとして遊郭が存在した。ただしそこで働く遊女は、その身体を商品として売買される存在であった。つまりそこは、社会的経済的に抑圧された人びとが集う周縁社会だったのである。
 

おわりに
 

 本稿では「はじめに」で示した視点のうち、②地域真宗史に軸足を置いて北海道真宗史へ言及してきた。ただしそれは、本山を中心とする組織や制度をふまえた①真宗教団史と別のものではない。各地域の寺院・道場・門徒宅に安置された法宝物が、本山からの授与物であることが確たる証拠である。真宗の教えは、真宗教団の組織を介して各地に伝えられながらも、それぞれの地域で独自の真宗文化を育んだ。

 真宗史のなかでも北海道は、特異な歴史であるとの印象が持たれてきたように思う。ただしそこで課題とされることは、決して一つの地域に限定されることではない。真宗が布教されるとき、その教えを必死に伝えようとする人、その教えを生活の支えとした人がいた。一方で新たに真宗の拠点が置かれ、そこを中心に地域が形成されるということは、すなわち、それまでの社会を解体することであった。真宗教団と社会の展開を考える時、常につきまとう問題と受けとめ、“地域真宗史”に向き合っていきたい。

(教学研究所研究員・松金直美)

([教研だより(211)]『真宗』2024年2月号より)※役職等は発行時のまま掲載しています