悲しみの深さのなかに 真のよろこびがある

法語の出典:瓜生津隆真

本文著者:津垣慶哉(日豊教区正應寺住職)


この法語を前にして私の頭をよぎったのは、金子大榮師の「人と生まれし悲しみを知らない者は、人と生まれし喜びを知らない」(『親鸞と共に生きる』読売新聞社)の一文であった。これをどう受け取ればいいのだろう、深い悲しみの中でこの言葉から何が見えてくるのだろう、と繰り返し考えていた。以下、少し長くなるが金子師のこの言葉の背景となるやり取りをたどってみる。


ある男性が師にこんな問いを投げかけている。


私は実は十五年前に、娘を十六でなくしたんです(中略)娘のことを思い出すと、涙がぽろぽろ出ることがあります。ですからいくら信心をいただいたって死んだ娘が善知識であるといっても、死んでくれて良かったとは私には夢にも思えない


師は相談者に同意しながら、次のように応答する。


悲しいということからいえば、見送るものはどこまでも悲しいのであります。けれど見送られる者の立場に立ってみますと、お父さんにそういつまでも泣かれておっては困るんです。(中略)お父さんが悲しむということは、娘を親不孝にするということになる。だからそう悲しまないで、どうぞ親不孝の罪を許して、お父さん何とか仏法を聞いて下さい、というのが亡き娘の心でしょう。

お前の気持ちはわかるけれども私は悲しいんだ、というのが親の気持ちでしょう。そしてこちらの気持ちをだれが慰めてくれるかというと、やはり死んだ娘さんよりほかに慰めてくれる人はいないんだと思います。そこに悲喜の交換というものがあって、この世の悲しみも、彼の世の娘の悟りの心が救ってくれる。(中略)人と生まれし悲しみを知らない者は、人と生まれし喜びを知らないと、こう私は思っております。


どんなに精一杯の思いを向けても無力感だけが残る、殊に愛しい人の死を前にするとただため息が出るばかりである。そして、にもかかわらずその思いをやめることもできない。そんな時念仏を勧められ、念仏申せばどうなるのかと問えば、いやどうにもならないから念仏申すのですという声が聞こえてくる。


なき人のために何かせずにはおれないという思いから念仏に出遇い、その念仏においてかえって私たちが目覚めさせられる。目覚めさせられるとは仏さまの眼によって業縁(関係性)を生きる人間の悲しみの深さ、愚かな凡夫のすがたをはっきりと見るということである。そして、たまわった如来の心を依り処にして自他(私となき人)の救いが見いだされてくるということではないだろうか。


最近大切なお子さんをなくされた門徒さんと友人の言葉にならない悲しみを聞きながら、義妹をなくした私の家族と共にその問いかけへの応答の言葉を探し続けている。



東本願寺出版発行『今日のことば』(2020年版【表紙】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2020年版)発行時のまま掲載しています。

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