私たちは満開のさくらの会にしよう─東海退所者の会設立

岡崎教区成福寺住職 北條 親善

  

一、はじめに

 2003年7月2日、汗ばむ夏の暑さの中、慣れないネクタイをつけて、私と名古屋教区の加藤久晴さんは、愛知県庁の健康福祉部健康対策課に向かった。もちろん真宗大谷派として事前にコンタクトをとった上での訪問である。県庁のエレベーターの当階のボタンを押す手が汗ばんでいたのは夏の暑さのせいだけではなかった。私たちの目的を成し遂げるためには、この交渉は大切なものであった。

 私たちの目的とは、東海地区にハンセン病の「退所者の会」を作ることであった。全国には八つの退所者の会ができていた。ところが東海地区には、名古屋という大都市を持ちながら設立の気配もなかった。ハンセン病の元患者である療養所退所者が名古屋にいないはずはない。そこで、大谷派の責任の下、東海地区に退所者の会を立ち上げようということになったのである。

  

二、ハンセン懇と退所者への課題

 大谷派のハンセン病問題への取り組みは、1996年2月にそれまで個別に療養所と交流をしてきた人たちを中心として、企画室管轄で設置された「真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会」(ハンセン懇)が主体で動いている。同年3月に「らい予防法」が廃止され、4月5日に大谷派が謝罪声明を出した。1997年1月号より、『真宗』誌において「ハンセン病はいま」の連載が始まり、同年9月には第一回「真宗大谷派・全国ハンセン病療養所交流集会」を真宗本廟で開催した。

 ハンセン懇が設置されて3年後には、担当部門が企画室から同和推進本部(現解放運動推進本部)に移行され、ハンセン懇委員を全国組織にし、交流・里帰りの取り組みを強化していった。しかし、「全国ハンセン病療養所交流集会」という名からもわかるように、ハンセン懇が見ていたのは療養所入所者であった。

 じつは退所規定のない「らい予防法」下でも、治ったものとして療養所を去ったり、あるいは故郷への帰省届けを出して飛び出したまま「逃走」(事故退所)していった入所者が一定数いた。また、療養所に入ることをあえて拒否し、一般社会での生活を選び取った非入所者もいる。国の検証会議の席で関西在住の退所者は、「私は社会復帰ではなく、犯罪者のように社会潜伏しているだけだ」と語られていた。差別が残る社会で生きる退所者の苦難を表す言葉である。

 ハンセン病国賠訴訟を機に、各地で退所者原告団として退所者の会が結成された。ここにきてやっと私たちは退所者の存在を大きく意識したのである。

  

三、退所者の会設立に向けて

 2003年ハンセン懇組織の改編にあたり、私は東海四県の高山、大垣、岐阜、岡崎、名古屋、三重の各教区から選出された委員を同一チームにする提案をした。もちろん東海地区退所者の会の設立を踏まえてのことである。

 東海地区7人のハンセン懇委員には、2年後の設立を目標に役割を分担した。療養所内の東海地区県人会とのコンタクトや、すでにある退所者の会との連絡、協力弁護士の確保、愛知県との折衝等である。

 とにかく、東海地区に住む退所者の誰かに会の代表となってもらわねばならない。情報では、東海四県には86人の退所者がおられるとのことである。しかしながら、みな「潜伏」しているのである。私は必死になって「潜伏者」を探した。

 岐阜県土岐市に代表になってくれそうな人がいると聞き、連絡をした。何度か電話で話したが、仕事があって表に出るのは無理だと言われた。邑久高等学校新良田教室の卒業生で三重県の四日市に住む人がいると聞いたので、コンタクトをとってもらったが、社会的な地位もあり、関われないという返事であった。駿河療養所の西村時夫自治会長は、「療養所を出て名古屋に退所者の会をつくりたい」と言っておられたが、不治の病で入院中である。想像していた以上に誰も見つからない。

 愛知県一宮の県立尾張病院の敷地内に「藤楓荘」という名のハンセン病外来治療所がある。治療は1年に2回、駿河療養所の所長が担当している。治療登録者は37人。前回治療に訪れた人は21人。そこで治療日に私たちが訪問して、退所者の会への参加を呼びかけようと考えた。そのためには管轄の愛知県の承諾を得なければならない。そうした中で、2003年7月2日、名古屋教区のハンセン懇委員の加藤さんと県庁を訪ねたのである。

 わずかの期待もかなわず、藤楓荘への訪問は許可されなかった。食い下がって、退所者の会設立のチラシは渡してくれることになった。だが、後に、宗教が絡んでいるチラシは配布できないと連絡があった。

 気持ちが折れてしまう。なぜ私たちが退所者の会を立ち上げなければならないのか。目の前に進んでいる交流だけで十分ではないのか。弱い心が起こる。

 「私は社会復帰ではなく、犯罪者のように社会潜伏しているだけだ」。関西の退所者の方の声がよみがえる。潜伏を潔しとしてよいのか。それならば無批判に国家政策に追従し、隔離に追いやったときと同じではないのか。社会復帰した人たちにとって退所者の会があるというだけでも、一縷の光となるのではないか。

  

四、東海退所者の会「さくらの会」

 状況が大きく動いたのは、設立集会の予定の4ヵ月前だった。西村時夫さんが命終された。この葬式に、全療協役員の平野昭さんが参列した。同じく参列していた全国退所者の会事務局長の川邊さんから、「平野さんはもうすぐ退所しますよ」と告げられた。私は、白髪で怖そうな雰囲気の平野さんにあいさつをした。静岡県沼津市に引っ越したら連絡してくれると返事をもらった。

 2004年11月21日、沼津市高島町に退所した平野さんのアパートをたずねた。退所者の会の経過を説明し、会の代表者をお願いした。即座に「やりましょう」と強い返事があり、退所者の会が立ち上がった、と私は思った。

 それからは、話は早かった。平野さんは、支援者に連絡をとり、協力を求めた。全国退所の会も、愛知県に働きかけて藤楓荘にチラシを置けることになった。治療の日には当事者でもある平野さんも出向いて直接声をかけてくれた。

 準備も整い、2005年2月18日、名古屋東別院にて、東海地区退所者の会設立集会が開かれた。28名が集まり、その中に退所者は3人、非入所者が1人だった。藤楓荘でチラシをもらったという年配の男性が夫婦で参加してくれたのは思いのほかうれしかった。

 そして、4月10日には第一回東海地区退所者の会が同じく名古屋東別院で開かれ、支援者も増えて32名となった。このとき、平野会長が窓の外をふっと見て、こう言われた。「関西退所者の会の名前は銀杏の会、東日本退所者は青葉の会、私たち東海は、満開の桜の・さくらの会・にしよう」。別院の会場の窓から、私たちを応援しているかのような満開の桜が見えた。

  

真宗大谷派宗務所発行『真宗』2024年2月号より