報恩の生活

著者:海 法龍(東京教区長願寺住職・真宗大谷派首都圏教化推進本部委員)


報恩という生き方のひとつの姿を、ある先生のご法話でお聞きする機会がありました。それは、先生のお母様が亡くなっていかれる時のお話でした。臨終の、正に最期の時、「お母さん、何か言い残すことはありませんか」と聞かれたそうです。


そうしたら苦しい息づかいの中、「遇うべき人には遇えたような気がする。聞くべきことは聞かせていただいたような気がする。だから、何も言うことはない」という返事があったということでした。


遇うべき人に遇って、聞くべきことを聞いた、だから死んでいけると。これは言い換えれば、遇うべき人に遇わずに、聞くべきことを聞かなかったら、私たちは死んでも死に切れないということでしょう。お母様はお寺の坊守さんです。住職であろうとも坊守であろうとも、一人の人間として、遇うべき人に出遇い、聞くべきことを聞いて、そこに深いご恩を感じるところに、はじめて生きていけるし、死んでもいける。


そこには、死んで善いところに行きたいというこころから解放された世界があります。つまり私の生を尽くして、生きていける、死んでいけるのです。そしてそれは同時に、他者と共に悩みながら生きていける世界なのです。ここに「日ごろのこころ」とは違った、報恩の生活を営んできた真宗門徒の具体的な姿があります。


ご恩を感じるのはなぜか。それは、教えに生きている師や友に出遇い、教えの功徳、法をこの身に受けた喜びがあるからでしょう。


親鸞聖人はそれを「報恩謝徳」と示されました。「南無阿弥陀仏」の徳、功徳をいただくところに開かれてくる利益が「謝徳」です。それは、教えの徳への感謝であると共に、「謝りを感じる」ということでもあります。


正しいとは言えない私なのに、いつでも自分の正しさに無意識に立っている姿が言い当てられ、自然に深く頭が下がり、「謝っていた・誤っていた・間違っていた」という罪深い愚かな私を実感せしめられるのです。自分の考えていることは絶対に正しいとは言い切れないのに、日常生活の中で無意識にそこを立ち位置にしている私が、教えの光に照らし出され、謝りを感じせしめられるのです。それが報恩という感覚であり、報恩の生活なのです。


『報恩の生活』(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2020年版②)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2020年版)をそのまま記載しています。

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