お念仏というのは つまり自分が自分に対話する道

法語の出典:曽我量深

本文著者:片山寛隆(三重教区相願寺住職)


「念仏」といえば、「南無阿弥陀仏」だと誰もが申します。しかし、実はそれをどう受けとめたらよいのかがわかりづらいという方もおられるのではないでしょうか。


親鸞聖人が関東から京都へ帰られた後、関東ではお念仏の教えについて混乱が起こりました。その状況をどうにかしようと親鸞聖人は息子の善鸞さんを関東へ派遣するのですが、善鸞さんと親鸞聖人の言っていることが違うということになり、さらに関東の人たちが動揺されたということが言い伝えられています。


親鸞聖人は、多く称えれば救われる、あるいは心を込めて念仏申し、その結果さとりを得ようとする等々、自分が積んできたものを頼みにする、そういう念仏は「自力」だとおっしゃっています。


それに対して、「他力」は何もしないということではありません。積み重ねてきたことを依り処にするその自分のあり方を照らしてくださる、仏さまのはたらきに目覚めていく、解放されていくということを表しています。仏さまに出遇って自分のその思いの迷いに気づかされ、自分の本当の姿が知らされるところに私たちの救われていく道があるのです。


その私の本当の姿は「罪福心(自分の思いを中心にする心)」以外の何ものでもないということが知らされるということです。


私たちの身はどこまでも罪福の心で「念仏」を領解しようとしてしまいます。そこに立つ限り、どこまでも他を排除し、切り捨てる、自分の思いどおりにしたいということのみをもって生き、その思いに振り回され、人間をも役に立つか立たないかという価値でもって見てしまいます。その結果、他者との間に溝をつくり人間関係を希薄化させ、孤立・孤独化していきます。このことは現代顕著になっている問題の一つです。


それは結局、自分を見失って生きているにもかかわらず、その実感のないものになってしまっているということではないでしょうか。


それに対して、自分を守ろう、立てようと頑張っている「自力のはからい」から解放してくれるのが、お念仏であると教えられます。


聖人が依り処とされた『仏説無量寿経』に説かれる四十八願の十七番目に「諸仏称名の願」という願いがあります。


この願いには、あらゆる仏さまが、阿弥陀仏の本願は尊いのだとほめたたえていることが示されています。そして我われはそのいわれを聞かせていただくのだと教えられます。念仏とは「私の本当の姿」を知らされるということであり、それは自分に先立って仏さまの教えを大切にしてこられた諸仏の念仏の声を聞くということです。本当に自分の姿に出遇われた先人の声を聞くことが私どものすべきことなのです。


念仏は回数や心持ちが大事なのではないのです。大切なのは、私たちに先立って念仏された先人の大事な教え(声)を聞かせていただくことです。そのことにおいて「南無阿弥陀仏」のいわれが伝わり、自然に私たちも念仏申す心が起こってくるものではないでしょうか。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2020年版【4月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2020年版)発行時のまま掲載しています。

東本願寺出版の書籍はこちらから

東本願寺225_50